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第7話「純潔」

 色とりどりのコスモスが、風に吹かれ、気持ちよさそうに揺れている。凝った装飾の施された白い柵に囲まれ、人々の賞賛の声を浴びたコスモスは、どこか誇らしげだ。  その中を、恋糸(こいと)は息を荒げながら進んでいた。 「……だいじょぶスか、恋糸さん」 「むり……休憩しよ……」 「……座れるとこないス」 「ここ座ろー、ここ……死ぬから……」  心配そうな銀河(ぎんが)にそう言って、恋糸は道端に座り込んだ。視線の先で、太陽のように大きく花弁を開いたコスモスが、そよそよと揺れている。遥か遠くまで広がった、その鮮やかなコスモスの絨毯は、青い空の下で大きく波打っていた。 「……駄目って言われたらちゃんと退くんスよ」 「うるせー……当たり前だろー……」  恋糸は、赤くなった顔を手でぱたぱたと扇ぎながら、ぐったりと頭を垂れた。薄い胴体に細い手足のついたこの身体では、二十八度の屋外は堪える。秋とは、こんなにも生きづらい季節だっただろうか。  項垂れた恋糸がぴくりとも動かないのを見て、銀河が、顔を覗き込もうと少し膝を曲げた。 「……大丈夫ですか。思ってたより暑いスね」 「ホントになー。もー……なんでこんな……」  恋糸は項垂れたまま、ため息をついた。どうせなら、いっそ寒いほうが良かった。この気温は、歩き回るには暑すぎる。ふと顔を上げると、恋糸のそばで、銀河が、きょろきょろと辺りを見回していた。どうやら、何か探しているらしい。  恋糸は、そのまま彼の顔を見上げた。  真面目そうな黒髪と、ツンと尖った横顔のライン。少し羨ましい、骨太な身体。 「……メガネ似合いそーね」 「どしたんスか、突然」 「んーや、似合いそだねって思っただけよ」  恋糸がくすくす笑う。銀河は首を傾げ、怪訝そうに眉をひそめていた。 「あの、俺ちょっと、さっきの広場みたいなとこ戻って水買ってくるス。すぐ戻るんで」 「あー……銀河行くなー……」  力なく、細い腕がちょいちょいと伸びてくるのを無視して、銀河は走り去っていく。その後ろ姿をじっと見つめて、恋糸はカメラに手をかけた。  風が、頬を撫でるように吹いている。心地のいい風だ。どうやら、今日は恋糸の味方らしい。恋糸は長い睫毛をやや持ち上げ、ゆっくりとファインダーを覗いた。 「……銀河はキレイだなー」  頬が緩み、穏やかな気持ちでシャッターを切る。恋糸は、撮った写真を振り返らないまま、今度は一面のコスモスにカメラを向けた。 「どーせなら、銀河のこと撮らしてほしいなぁ」  恋糸は呟いた。  恋糸が写真を撮るようになって、もう数週間が経った。あれほど避けていたことも、始めてしまえば簡単なもので、恋糸はまた、当たり前のようにカメラと共に生きていた。  恋糸は、この頃妙に、銀河を写真におさめたいと思っていた。恋糸は、たまに銀河の後ろ姿を隠し撮りしては、彼を自分の世界の中に収めてしまいたいという思いを強くした。しかし、銀河はおそらく、写真を撮らせてはくれないだろう。なにせ、いつカメラを向けても、眉をひそめるような子だ。 「何撮ってんスか」 「うおっ」  いつの間にか帰ってきていた銀河は、恋糸のカメラを後ろから覗いた。 「びっくりした……」 「見せてください」 「いーよ」  恋糸はアルバムの中から、一枚写真を選んで銀河に見せた。 「……ハトだ」 「カワイイだろ」 「ん……いや……怖いス」 「えー? ハト、カワイイだろー」 「恋糸さんの『カワイイ』信用ならねス」  なんだと、などとぼやきながら、恋糸はひたすら右へ写真を手繰っていく。 「……んー……やっぱだめだな、どれもこれも。鈍るもんだな」 「そうスか? 俺は好きス、さっきの風車のやつ」 「……あー、これか?」  銀河の言った写真を画面に大きく表示させると、銀河は頷いた。それは、大きな風車を撮した、一見かなり地味な写真だった。しかし、単調ながら、確かで分かりやすい美しさがある。恋糸は写真を見つめ、やや目を細めた。 「うん……この中じゃよくできたほうだな……確かに。銀河はセンスがいいなー」  恋糸は銀河の頭をわしわしと撫で、肩を軽く叩いた。どこか誇らしげな顔をした銀河ははにかみ、くすぐったそうに身を捩らせた。 「……見てみな。お前これも好きだろ」  恋糸がそう言うと、銀河は少ししゃがんで恋糸の横からカメラの画面を覗きこんだ。  そこにあったのは、何の衒いもない風車と青空、そして一面のコスモスの写真だった。 「わ、綺麗スねっ」 「……嬉しそうだな」 「はい! 嬉しいス」  銀河は、きっと、新しい写真を見られるのがよほど嬉しいのだろう。いつもよりも数倍はっきりとした声に、恋糸は笑った。 「……銀河、その水ちょうだい」 「はい」 「ありがと」  微笑むと、彼はまた嬉しそうに目を細めた。ほんの少しだけ色付いた頬が、柔らかそうだった。  彼は恋糸にペットボトルを手渡したあと、額を流れる汗を腕で拭った。 「……もう一本買えばよかったな……」  銀河が、遠くを見つめながらぽつりと呟いた。それを聞いた恋糸は、慌ててペットボトルから口を離す。 「あ、ごめん銀河。飲みすぎた。返すよ」 「い、いや……! それ、恋糸さんに買ったやつなんで……。俺は買うス、また、どっかで」  銀河はぶんぶん手を振り回して遠慮した。しかし、恋糸はペットボトルを突き出したまま、頭を少し傾ける。 「でも、倒れられたら困るから、これ飲んどきな。新しいのも、後で俺が買ってやるから」 「あ、ああ……えっと…………。じゃあ、貰うス」  銀河は両手でペットボトルを受け取った。それから、おずおずと飲み口に口をつける。遠慮がちに流し込まれた少量の水を、銀河はこれまた遠慮がちに飲み下した。  その一連の流れを見ていた恋糸は、思わず、肘をついて苦笑した。 「……銀河、俺と回し飲みするのがそんなに嫌かー?」 「あぇっ、何が……」 「だから、回し飲み」  驚いた銀河の口から、ぱたぱたと地面に水が溢れ落ちる。銀河は恥ずかしそうに口元を押さえ、小さな声で言った。 「……や、ヤじゃねス」 「んー、そ? あんまり遠慮するから嫌なのかと思ったよ」  恋糸は、いたずらな目で銀河を見つめ、優しく頭を撫でる。彼は恥ずかしそうに恋糸から目を逸らした。淀みのない瞳がキラキラと潤み、頬が赤らむ。恋糸は、その頬を親指で撫で、包み込むように頬に手のひらを添えた。指先で耳をくすぐると、銀河の瞳は、小さな快楽に揺らめいた。  恋糸は目を細める。柔らかい耳を指でなぞり、首筋を擦る。 「……こ、恋糸さん、くすぐったい……」 「あ……」  恋糸は慌てて手を引いた。欲に満たされていた頭が、ゆっくりと、現実に引き戻されていく。 「いや……、悪い、銀河……ごめん……」 「……大丈夫スか。顔色悪いスよ」  銀河は、心配そうに恋糸の顔を覗き込んだ。恋糸の額に手を伸ばす彼は、眉を下げ、恋糸を本気で心配している様子だった。恋糸は、ほんの少しも油断ならない自分を惨めに思った。振り払うように、銀河の頭に手を乗せて、わしわしと撫で回す。 「大丈夫。ありがとうな、銀河」  恋糸が立ち上がると、銀河はほっとして手を引っ込めた。  「……コスモスってこんなに綺麗なんスね」  恋糸が、必死で夕焼け空をカメラにおさめていると、銀河がそうぽつりと言った。恋糸はカメラから顔を上げ、銀河の方を振り返った。 「銀河はこういうとこ、あんまり来たことないんだ?」 「ス。あ、小さいときに何回か……従兄弟と一緒に連れていってもらったス」 「へえ、いいな」  恋糸は再びファインダーを覗く。銀河は柵に寄りかかり、俯いた。 「……でも、俺が無愛想だから、つまんなそうに見えたみたいで」 「あは、銀河は好きなのにな、こういうとこ」  銀河は目を瞬かせ、不思議そうに頷いた。 「……好きス」 「そうだろ。綺麗なとこ好きなんだもんな。今日ずっと楽しそうだったし」  撮影を終えた恋糸は、カメラを手に抱えて立ち上がった。手を大きく上げて、くっと背中を伸ばす。 「……恋糸さんは、なんで俺の表情分かるんスか」 「んー? 分かるっていうか……、俺、一回も銀河のこと無愛想だなって思ったことねぇよ?」  銀河が首を傾げていると、突然恋糸が銀河の目を指差した。銀河はびくっと跳ねる。 「銀河は、目の表情が豊かだからな」 「……目スか?」 「ああ。目見たらすぐ分かる。視線まで表情豊かだよ。だから、最初に話したときも、お前が俺のことをチラチラ見てたその視線だけで、俺はお前が思ってること結構分かってた。そうだっただろ?」 「……あのときは……綺麗だなって見てただけス」 「ふふ。いや、もっと下品な目だったよ」  恋糸は銀河の眉間をつんつんと突いて笑った。 「でも、今思うと不思議だなー。銀河があんな目で人を見るなんて」 「……何か変スか」 「いやいや、変じゃない。十六歳だもんな。でも、俺にはさ、銀河が事実以上にキラキラして見えてんだよ」  恋糸がそう言うと、銀河は、何を言っているのか全く分からないという顔で首を傾げた。 「まだ十五歳ス」 「あは、どっちも変わんねーよ」  恋糸は銀河の頭を撫で回し、髪の毛をぐしゃぐしゃにしてから手を離した。 「さ、帰ろうか。今日は何が食べたい?」 「この前食べた……あの天丼屋さんのかき揚げそばがいいです」 「あー、お前好きだなぁ」  銀河は、うきうきと輝く瞳で恋糸を見た。先日二人で食べた、人生初のかき揚げを、銀河は随分気に入っているらしい。恋糸は財布を開け、中身を確認して苦笑した。 「あー……あそこは高いから俺が作ってやるよ」 「……恋糸さん、かき揚げなんか作れるんスか」 「俺に、やってみてできなかったことはねーよ」 「たくさんあるだろ」  銀河が言うと、恋糸は面白くて仕方ないというようにくつくつ笑った。銀河が白い目を向ける。 「でも、恋糸さんが作ってくれんなら何でもいいかな……」 「あは、安上がりな男で助かるなぁ」  恋糸は銀河の背をパシパシ叩いた。嬉しさというよりは、ほとんど照れから、恋糸は銀河の頭をぐわぐわ撫でた。  「……あれ、それ二冊目だよな?」  帰り道に買ったインスタントそばを啜りながら、恋糸は尋ねた。銀河は楽しそうに写真を貼り付けながら頷く。 「そうス」 「あ? もう終わりか? 早いな……」  恋糸は手を伸ばし、ぱたぱたとアルバムをめくりながら呟いた。アルバム作りを邪魔された銀河は、手を止めて恋糸を見上げた。 「また買ってください」 「ばか、今度はお前が買えよ」  恋糸は苦笑いを浮かべる。銀河はきょとんと首を傾げた。それから少し不機嫌そうな顔をして、床に寝転がる。 「じゃあ、今度紅葉見に行くのやめるス」 「それはお前……関係ない約束だろ」  珍しいことを言う銀河に驚いた恋糸は、焦ったような口調でそう言った。 「いや、行きたくないならいいけど、銀河、見たくないのか? きれいなとこだぞ」 「……ふふ、嘘ス」  振り返った銀河が、楽しそうに笑う。恋糸は面食らって固まった。 「いいスよ、俺が買っても。今度なくなったときに買います」 「……俺をからかったな」 「恋糸さんがケチだから」  銀河はくつくつ笑う。恋糸は食べかけのそばを置いて、銀河の隣までやってくると、銀河を床に押し倒して上に乗り上げた。 「おいおい、誰がそんなこと教えた?」 「ふふ、恋糸さんの真似ス」  脇腹をくすぐると、銀河はきゃはきゃは高い声で笑った。恋糸は、体のほとんどは銀河の上にひっつけたまま、上半身だけを持ち上げた。 「……はいはい、俺が買いますよ」 「やった。嬉しいス」  身体の下で、銀河が笑った。 「新しいアルバムを買ってくれる内は、ここに来てもいいってことスもんね」  恋糸は目を瞬かせる。まさか銀河は、ずっとそういうつもりで、毎日アルバムを作っていたのか。  健気な奴だ。物分りがいい。自分と相手の距離感を、銀河はよく分かっている。  銀河の首筋に顔を埋めると、流石に銀河がびくっと跳ねて固まった。 「……恋糸さん?」 「…………俺が写真を撮り続けたら……お前はここで、アルバムを作り続けてくれるのか?」  銀河は怪訝そうに眉をひそめる。邪魔くさそうに身体をくねらせ、自分の顎に手を当てた。 「……確かに、もし貼る写真がなくなったら、俺来れねスね。どうしよう」 「話二個くらい飛んだな。いいけど」  恋糸はゆらりと起き上がる。それから、食べかけのそばをシンクの横にドンと置いた。 「……よし、散歩しながら帰るか、銀河」 「行くス」 「よし、靴を履けー。すぐ出るぞー」  恋糸は銀河を急かすようにそう言って、自分はさっさと玄関へ向かった。  恋糸はカメラを手に取り、靴を履いた。銀河を急かしながら扉を開く。風に吹かれ、恋糸はため息をついた。 「……涼しくなったな、銀河」 「ちょうどいスね」 「そうだな、ちょうどよかった」  少し、頭を冷やすべきだろう。今日はとことん熱でおかしくなっていた。  恋糸は自分の口元に手を当てる。先程嗅いだ銀河の匂いを、まだ忘れられずにいた。

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