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第8話「コンテスト」

 目の前の少年は、電車に揺られながら、もの珍しげに窓の外を眺めている。黒い瞳に映る鮮やかな景色が素早く切り替わるせいで、その瞳はきらきらと光っているように見えた。  その横顔をしばらく見つめていると、彼は居心地悪そうに恋糸(こいと)のほうを向いた。 「……あの、俺、どこまで連れて行かれるんスか」 「んー? ヒミツー」  恋糸が雑な返事をしたせいで、銀河(ぎんが)は思い切り眉をひそめた。その不満げな頬をつつきながら、恋糸は笑う。 「あは、すぐ着くよ、大丈夫。良いところだし。……あ、ちゃんと家に、泊まるって言ってから来ただろうな」 「言ったスよ、一応……」 「そ。ならいいんだ。銀河は偉いな」  恋糸に褒められて、銀河はむず痒い気持ちになった。正確に言えば、「言った」というのは嘘なのだ。実は、家に書き置きを残してきただけで、許可ももらっていなければ、そもそも話さえしていないのである。  銀河は、目的は果たしているので問題ないとはっきりと思っていたが、同時に、嘘を言ってしまったかもしれないとも思っていた。  銀河は、恋糸に嘘をつくのが嫌だった。彼は、嘘をつかない自分のことを好んでいるのだと、銀河にもなんとなく分かっていたからだ。  ちらりと恋糸を見上げると、彼は、そんな銀河の心になど気がついていないようだった。彼は、ゆったりと背もたれに身体を預け、優しい目で、じっと銀河を見つめている。銀河は、少し後ろめたくなって言った。 「……なんでずっと俺のこと見るんスか」 「ん? だって銀河見るくらいしかやることねぇだろ」  恋糸はけらけら笑って、今度は窓の外へ目を向けた。田舎町とまではいかないが、都会とも言い難い、微妙な町並みが、そろそろと流れていく。 「この辺り、昔住んでたんだ」 「……地元ですか?」 「いや、ここは大学時代に住んでたところ」  懐かしいな、と呟き、恋糸は窓の外の景色と、自分の記憶の中の景色とを照らし合わせていた。あの頃は、まだ子どものような気分で、先生の後を追い、カメラを抱えてどこへでも行ったものだ。 「卒業してからもしばらく住んでたけど、ふらっと恋池に行ったとき、あっちの方が合ってる気がしてさ。『恋糸』と『恋池』で、やっぱ運命も感じたし?」 「たまたまスね」 「『たまたま』のことを『運命』って言うんだよ。分かってねぇなー、銀河は」 「たまたまス」  銀河は楽しそうにふふっと笑った。その顔は、小さな子どものようにも見えた。 「この、頑固野郎め」 「痛いです」 「あは、かわいいなー」  恋糸は銀河の頭を撫で、短い髪を指先で弄ぶ。銀河は恋糸を見上げ、真顔のまま小さく首を傾げた。 「……恋糸さんって、なんで俺のことかわいいって言うんですか」 「え? そりゃかわいいからだよ」 「……嬉しくねス」 「じゃあ、かっこいいにしてやろうか。かっこいいー」 「嫌ス」  からかってばかりいると、とうとう銀河は不貞腐れてそっぽを向いてしまった。コロコロと感情の変わるところは、子どもらしくて愛おしいものだ。 「あは。あのなー、銀河、俺の言葉の一個一個に特別な意味なんかねぇよ。俺は口も身体も正直なんだ」 「……からだ」 「お、興味あるか? えっちな奴だなー」  銀河は、しまったというように一度目を見開き、口をきゅっと閉じた。少しだけ顔を赤くして、銀河は呟く。 「……それは恋糸さんス」 「あ、お前ー。俺のえっちなところなんか見たことないくせにー」 「誘われたことならあるスよ」  銀河の言葉に、今度は、恋糸がしまったという顔をした。 「そういうのは、『えっちなところ』じゃないんスか」 「お前、それはさー……」  恋糸は言い淀む。苦い思い出がよみがえり、どこかへ逃げ出したいような気持ちになった。何と言えばよいのか分からず、口をもにもにさせている恋糸を見て、銀河は、何故か満足げな顔をした。 「俺、キャバクラの近くとかでも結構止められるス」 「おい、誰だよ、俺のかわいい銀河にそんなハレンチなことしたのは」  銀河は楽しそうににやにやと笑い、そのまま俯いた。 「だから、別に気にしてないス。びっくりしたけど」 「……人が気にしてないって言ってるのをいちいち謝ってくる奴の気がしれねーと思ってたけどさー……、今よく分かるよ」  恋糸は俯いた。綺麗な髪がさらりと肩から落ちて、柔らかそうに揺れた。 「不安でいっぱいだ。俺は、お前を悪い方向に連れてってるんじゃねぇかって」 「……別に、恋糸さんについてってるんじゃねス。俺が行きたいから連れてってもらってるんスよ」  銀河は真っ直ぐな声でそう言って、恋糸を見上げた。恋糸は苦い顔をして首を振り、窓枠に肘をついた。 「……いや、大人になったら分かるよ。俺が悪い大人だったって」 「そんなわけないス。だって、俺はそこまで何も考えてない馬鹿じゃないんで」 「何も考えてねぇとは思ってねぇよ。でも、自分がどれだけ無知なのかは、やっぱり大人にならないと分からないもんだろ」  銀河は眉をひそめた。銀河が一体何を考えているのか、恋糸には分からなかったが、きっと納得はしていないだろうと思った。 「……じゃ、分かるまで、そう言われたことを覚えておきます」  銀河はそう言って、不満そうに手元に目を落とした。 「……もし、分かりたいと思ったら、俺から少し離れるといいよ。ほら、やっぱ冷静に考えるのが大事だろ。子どもの意欲って、ほとんど洗脳みたいなもんだから」  恋糸がそう言うと、銀河は一瞬ぴくっと目を細めた。持ち上がった銀河の黒い瞳が、もの言いたげに揺れている。不思議に思った恋糸は、窓枠から腕を離し、銀河とまっすぐ向かい合った。 「……銀河?」  怒ってるのか? と尋ねようとして止める。彼の表情から、そんなことは尋ねなくとも明白だった。 「恋糸さんは、たまに俺のことを『子ども』ってひと括りにしますよね」 「あ、いや、悪い。そういうつもりじゃなかった。けど、あんまよくない言い方だったな。ごめん」 「いや……それは俺が子どもだから仕方ないス」  銀河は、膝の上で手を組み、指をもそもそと動かしていた。 「ただ……恋糸さんが俺のことちゃんと見てねぇみたいで……、それがなんか嫌です。子どもだって大人だって、一人の人間スよ、ね」  銀河の言葉の最後の方は、可哀想にすぼんでしまった。恋糸は口元に笑みを浮かべ、銀河の頭を優しく撫でた。 「……ああ。お前の言う通りだよ。ごめんな」 「いいですよ」  良くないくせに、彼はそう言って大人ぶろうとする。銀河はいつもこうだ。まあ、大人ぶろうとしているのは、自分だって変わらないのだが。  その時、車内にアナウンスが響いた。恋糸は顔を上げ、モニターを確認する。 「あ、銀河、降りるよ」 「ここですか?」 「そ。ほら、リュックしめろ」  電車を降り、改札を出ると、そこには、暇を潰せそうな店が数軒ぽつぽつと立ち並んでいた。どの店の前にも、銀河より少し歳上の若者たちがわらわらと立っている。 「……さ、少し歩くぞー。銀河、迷子になるなよ?」 「は、はい」 「そうビビんなくても大丈夫だよ。美人引き連れて歩いてりゃ、誰にも話しかけらんねーって」  銀河は、ビビってねス、と眉をひそめて歩き出す。それを見て、恋糸はくすくす笑った。 「……それで、結局どこ向かってるんですか」 「ああ。俺の出身大学だよ」 「……大学?」  恋糸は頷いて、行くぞと頭を傾ける。銀河は、きょろきょろ辺りを見回しながら、恋糸のそばにぴったりくっついて歩いた。  活気のない廊下。つかつかと進む恋糸の表情は、まるで何か、大切な戦いにでも向かうかのように強ばっていた。 「……恋糸さん」 「ん?」 「大学って暗いんスね」 「あはっ。今はあんまり学生がいない時間だからなー。節電だよ」  恋糸はそう言って笑った。緊張がやや解けたのか、恋糸の表情がほんの少し優しくなる。銀河はホッとした。正直なところ、真面目な顔をしているときの恋糸が、銀河は少し怖かったのだ。  恋糸は、三階の、ある扉の前で立ち止まった。小さく息を吐き、彼はドアノブに手をかける。銀河は、慌てて恋糸の後ろに半分隠れた。 「こんにちは、平先生」 「…………高崎?」  中にいたのは、小洒落たスーツを着た男だった。恋糸が平と呼んだその男は、勢いよく立ち上がり、驚いた顔でこちらを見つめた。 「こんな美人が他にいました?」 「いや……お前……」  平は目をぱちぱち瞬かせながら、椅子を手繰り寄せて再び座った。 「久しぶりだな……」 「近くまで来たので」 「へえ……。いや、正直、お前はもう二度とここへは来ないと思ってたよ……」  平はどこか気まずそうで、銀河も思わず半歩身を引いた。恋糸の後ろで縮こまっていると、ふと、平が銀河に目を向けた。 「……珍しいな、高崎に友だちなんて」 「ああ、伏見です」 「?」  平は驚いた顔をして、まじまじと銀河を見つめてきた。銀河は怪訝に思いつつ、おずおずと一歩前へ出た。 「……こ、こんにちは。……伏見銀河です」 「はじめまして。平です」  平がにこりと笑ったのを、銀河はじっと見ていた。 「……もう高校生かな?」 「いや、自分は……高校行ってないです」 「あ、そう。働いてるの?」 「平先生、俺がアンタに用事なんですけど」 「……はあ。変わらないな、高崎」  割り込んできた恋糸のことを、平は鬱陶しそうに見た。彼はゆっくり立ち上がると、近くにあったポットでお湯を沸かし始める。  恋糸は、勝手に、立てかけてあった折りたたみ椅子を部屋の真ん中に広げると、そこにドシッと座った。 「銀河、下の美術館見てきなよ。写真見るの好きだろ?」 「い、いえ、大丈夫ス……」 「なんだよー。さては緊張してるなー? あはっ、俺が突然連れてきたんだよってな!」  恋糸はケラケラ笑って、銀河の背中を押した。 「大丈夫、誰でも自由に入れるから。うちのはかなりレベル高いぜ。ほら、面白いからさ」  恋糸が、銀河の背を無理矢理押すので、銀河は仕方なく頷いた。 「……じゃあ、見ます。……どこにあるんスか」 「奥の階段下りて、左のドア出たら分かるよ」  銀河は小さく頷いて、部屋を出ていった。  銀河が出ていくと、平は、白いティーカップを恋糸に出した。 「……あの子、似てるな。だから連れてるのか?」 「あは、俺にでしょー? でも違いますよ。カワイイから連れ回してるんです」  てきとうなことを言ったら、平が眉をひそめた。その顔を、恋糸は飄々とした表情で見つめる。もう何も喋りませんよと言うように、彼は口をにこりとかたく結んだ。彼に、銀河のことを話すのが、なんだか嫌だった。 「なんだ。少しは変わったのかと思ったのに、お前は変わらないな……」 「もちろん。貴方たちに裏切られたときから、ちっとも変わってないですよ」  恋糸は足を組み、平を真正面から見つめた。見つめられているだけだったが、まるで睨まれているかのように居心地が悪く、平はため息をついた。 「……そうか」 「でも、これから変わっていきます」  恋糸の瞳が、僅かに揺れた。ギラギラと燃えているかのような瞳に、平は一瞬、目を奪われた。 「……そんな気がするんです。先生に会ったときみたいに、きっと俺は変われる。……だから、あんたに会いに来たんです」  恋糸は立ち上がり、平をまっすぐ見下ろした。 「ききたいことがあります。あの日、不正は本当になかったんですか」  平は、黙ったまま、何も答えなかった。 「……ああ、そうかよ。そうだと思った」  どうせ、答えないのはわかっていた。それでも、今日はここへ来たかった。  自分にとって、彼らがもう、どうでもいい存在であることを、確認するために。 「俺はあんたたちが嫌いだ。俺はこれから、あんたらにもう二度と馬鹿にされない、そんな写真家になる」  自分がなりたかったものは何だったか。あれほど身を焦がしたものは何だったか。  銀河は、それを思い出させてくれる。正しく、まっすぐに、写真を見てくれる。 「アンタらに、いいように使われたままじゃ死ねない」  銀河の前で、俺は良い大人でいたい。  恋糸は立ち上がり、椅子を端に除けると、すぐに部屋を出た。懐かしい匂いが鼻をかすめる。あの日の匂い。青春の匂い。 「……高崎。あのとき、こちら側に不正はなかったよ」  扉が閉まる直前、平がそう言ったのが聞こえた。 「…………」  恋糸は、目を見開いて固まった。それから、ゆっくりと目を伏せる。振り返ることはせず、ただ静かに拳を握りしめた。 「……それが事実だろうが違かろうが、俺がナメた写真撮ったことに変わりねーんだよ」  恋糸はそう呟いて、仄暗い廊下を歩き出した。  ――その時の、腸の煮えくり返るような怒りを、ガツンと頭を殴られたような絶望を、とりかえしのつかないような恥を、忘れたことは一度もない。  その時から、自分は、自分が何者であったのか分からなくなった。 「金賞は、高崎恋糸です」  その時、会場にいたすべての瞳が、一斉に恋糸を見た。賞賛や妬み、僻みや尊敬がいっぺんになだれ込む中に、恋糸は涼しい顔で座っていた。  大きなスクリーンに表示された、間延びした空の写真。何の面白みもなく、それはそこにあった。  大学最後のコンテスト。それは、恋糸の優勝で呆気なく終わった。 「高崎くん、前に」  司会の男がそう言ってにこりと微笑む。恋糸は、ガタンと大きな音を立ててその場に立ち上がり、辺りの人間を軽く見回した。 「つまんねぇ」  その一言に、辺りの人間は一瞬にして静まり返った。  審査員席では、ゼミの担当教員の平が、口をぽかんと開けてこちらを見ていた。 「た、高崎くん……?」 「つまんねーコンテストだな」  恋糸が椅子を離れると、会場はざわついた。彼は通路まで出ると、そのまま出口へ向かって歩き始めた。 「……ま、待てッ、高崎!」  平が立ち上がり、恋糸を追いかけようとしたときには、恋糸はもう、会場の扉を開けていた。会場はざわめき立ち、恋糸の名前を呼ぶ声がいくつか聞こえた。  外に出ると、恋糸は走り出した。冷たい風が、恋糸の身体を突き刺す。  彼の心には、怒りと絶望が満ちていた。情けなさや恥ずかしさが込み上げて、恋糸の身体は震えた。 「ふざけてんじゃねぇぞ……」  しばらく走って、恋糸はふらふらと立ち止まる。頬を袖で擦り、拳を握りしめた。このような屈辱を味わったのは、生まれて初めてだった。 「高崎!」  そのとき、駆け寄ってきた平が、恋糸の腕を掴んだ。恋糸は平を睨みつけ、低い声で言った。 「離せ」 「高崎、お前どういうつもりだ」  平は、怒りと焦りで震えた声でそう言った。彼は、面白いほどに必死だった。恋糸は彼を鼻で笑うと、手を振り払った。 「どういうつもりだって? そりゃこっちのセリフだろ」  平が、首を傾げて恋糸を見上げる。 「あの写真は、俺が、お前に作品を出せと言われたその日に撮った写真だ。何の思いもこもっちゃねぇ。テキトーなんだよ。……それが、金賞?」  恋糸は、そう言って拳を握りしめた。  あの写真は、絶対に賞など取れないように出したものだった。取れないはずだった。  それなのに、あの写真は、賞を取ってしまった。それが、自分の作品として誰かに認められたことが、恋糸は心の底から恥ずかしかった。 「……お前は、その何が不満なんだ。そんな写真でも、金賞を取れるような才能が、お前にはあったんだ」  平はそう言って、恋糸にトロフィーを押し付ける。 「……いいじゃないか、お前が金賞で……っ。何が悪い? 何が不満なんだ?」  恋糸は眉をひそめる。平の身体を突き放すと、トロフィーを奪い取って、それを地面に叩きつけた。 「お前……ッ!」  トロフィーが、粉々に砕け散る。恋糸はそれを踏みつけると、平の胸ぐらを掴んだ。   「あの写真見て、正直、アンタヤバいと思ったろ? 俺言っただろ。『写真は出す。けど、金賞は取れねぇ』ってさ」 「……高崎、お前」 「不正してまで、アンタは名誉がほしいのか? それとも、お前たちは撮った人間の名前で作品の優劣を決めてるのか?」  恋糸は平の身体を地面に突き飛ばした。平は、トロフィーの破片の上に転がった。 「どういうつもりだよ、なあッ!」  平は何も答えなかった。恋糸はゆっくりと地面にしゃがみこんで、トロフィーの破片を一つ拾い、握りしめた。 「……はじめから、俺の写真を正しく評価するつもりなんかなかったんだろう」  恋糸は呟く。平はまた何も言わず、ただ恋糸を見ていた。  美術館には、多くの作品が展示されている。写真や絵画、彫刻から、何と呼べばよいのか見当もつかない物まで、その種類は幅広い。それらのほとんど全てが、四年次に行われる卒業コンテストの優秀作品で、その中には、大学の美術館が管理するには本来価値の高すぎるものもある。 「……銀河」 「恋糸さん」 「ここにいたのか」  恋糸は銀河のいた場所に立ち、そして彼と同じように壁を見上げて、目を見張った。 「……ああ、ここにいたのか」  そこにあったのは、写真だった。真っ白い服を着て、楽しそうに砂浜を駆け回る青年と、夕焼け色の海。空は、僅かに桃色がかった派手な赤と、薄青色のグラデーションが綺麗だ。白い砂浜や青年の衣服には夕焼けの色がついていて、まるで、この世の光景ではないように見えた。 「これ、恋糸さんですよね」 「お、よくわかるな」 「なんか、見たことある気がして。恋糸さんは、やっぱり映る方も綺麗ですね」 「まーな」  恋糸は、かつての自分の姿を見て、なんだか恥ずかしい気持ちになった。この若く美しい青年は、カメラに、いや、その奥に、甘い情熱を向けているのが丸分かりだったからだ。 「この写真撮ったのは、もう亡くなった俺の恩師だよ」 「へえ……」  銀河は生返事をし、まじまじとその写真を見つめていた。どうやら、写真に夢中で、今は他のことを何も考えたくないようである。 「銀河、この写真好きか?」 「好きス。派手で」 「あは。いいよな、派手でさ」  恋糸は面白くなってケラケラ笑った。銀河が、不思議な顔をして恋糸を振り返る。恋糸は、なんでもないと首を振りながら、銀河の肩をたたいた。 「……さ、銀河、もう行こうか。十分見て回ったか?」 「ス」  銀河はこくりと頷いた。  美術館を出ると、二人はまた駅に向かって歩き始めた。何気ない昼下がり。寒いほどの風が吹いて、恋糸はポケットに手を突っ込んだ。 「……そういえば……恋糸さんの写真、どれか分かんなかったス」 「ん? そりゃ、この美術館、名前書かれてないからなー」 「絶対分かると思ったのに……」  銀河はしょんぼり俯いた。その顔に、恋糸はなんだか嬉しくなって笑った。 「あは、落ち込むなよ。かわいいやつだなー」 「それっぽいのは見つけたんスよ」  銀河は、悔しそうに恋糸を見る。 「……でも、楽しそうじゃなかったから、多分違います。恋糸さんは、あんなナメた写真撮らねぇし」  恋糸は驚いて喉に言葉をつまらせた。 「……すごいなー、銀河は」  恋糸は、本当に感心して銀河の頭をわしわしと揺らした。 「…………何かあったんスか」 「んー?」  受け流すと、銀河はまた不満そうにした。けれど、きっと彼は、これ以上何も聞かないのだろう。  恋糸は銀河の頭から手を離し、口を閉じた。  彼は物言いたげな目を伏せて、道に転がっていた小石を蹴っ飛ばした。 「……なんでもねス」 「あは、銀河はいい子だなー」  恋糸は、銀河をこね回す。銀河が恋糸の手を払い除けると、恋糸は目を伏せて、満足げにくすくす笑った。

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