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第9話「悪いおとな」

 移動中のバスの中で、銀河(ぎんが)は飽きもせず、じっと外を眺めていた。何か考えているのか、それとも、ただ外の景色が好きなのか。携帯やゲーム機という娯楽がないから、なんとなく外を眺めているだけかもしれない。  恋糸(こいと)は、今銀河が何を考えているのか、彼に尋ねてみたい気持ちでいっぱいだった。けれど、楽しそうな彼の気がこちらへ逸れてしまうのが勿体無くて、しばらくの間、黙って彼を眺めていた。  バスは、大きな駐車場の前で停車した。人がわらわらと乗り込んでくる。銀河の目はぱちっと窓から離れ、身体は少し小さくなった。 「……バスいっぱいだな」 「ス……」  銀河は頷いた。通路の席が埋まると、恋糸はやや銀河の方へ身体を寄せた。しばらくして、バスはゆっくりと動き始める。  十分ほどで、バスは山に入った。すると、今まで窓の外を見ていた銀河が、突然恋糸に身体を傾けてきた。恋糸は、驚いて彼を凝視する。どうやら無意識のようで、彼はうとうとと目を閉じたり開いたりしていた。 「……疲れたよな、銀河」 「ちょっと……」 「寝たほうがいいんじゃないか」 「嫌ス……もう着くから……」  そう言いながら、銀河はうつらうつらと頭を揺らしていた。 「……銀河は、どういうものが好きなんだ?」 「どういう?」  銀河は少し顔を上げた。 「色々あるだろ。好きなもの。食べ物とか、飲み物とか、動物とか」 「なんでスか」 「お前、何でも喜ぶから、何が好きなんだろうって思って」 「俺……、んー……」  銀河は、眠そうにぽそぽそと喋った。 「何でも好きです」 「あは。なんでも? 答えになってねーだろ」  恋糸がくつくつ笑っていると、ふっと上がった銀河の瞳と、目があった。 「あ、綺麗なものが好きス」  銀河のキラキラの瞳が、恋糸を見上げて笑った。その瞳があまりにも可愛くて、恋糸は思わず、その眉間に口付けてしまいそうになった。 「…………お前、俺好きだもんな」 「恋糸さんはモノじゃねぇスよ」 「綺麗なものが好きなら、綺麗な人だって好きだろ」 「んー、好きス。恋糸さん、綺麗だから」  銀河は肩をすくめてくつくつ笑った。 「……けど、恋糸さんが美人じゃなくても、俺は恋糸さん好きだったと思います」 「あはっ。嘘だな。俺が美人じゃなかったら、ただのろくでなしだぜ?」 「ろくでなしだから好きなんスよ。普通の人は、子どもと遊ばねス」  目が覚めてきたらしい銀河は、もぞもぞと座席に座り直した。彼の身体のぬくもりが離れると、恋糸は妙な気持ちが湧いた。 「恋糸さんは、ろくでなしだから、俺のことちゃんと見てくれるんス。普通みんな、忙しくて俺のことなんかかまってくれねス」 「……つまり、俺が変人で暇人だって言いたいんだな?」 「そス」 「バカヤロ」  脇腹をくすぐられ、銀河はきゃっきゃと笑った。恋糸はそのまま銀河の上に半分被さって、小さく笑った。 「俺はお前が好きだから、こうして遊んでやってるんだろう」  囁くような声に、銀河はびっくりして顔を上げた。 「俺は暇じゃねーよ」  恋糸はくすくす笑いながら立ち上がった。いつの間にか、バスは停まっていた。ぞろぞろと列を成す乗客の隙間で、二人は並んでバスを降りた。  青く澄んだ空に、赤い紅葉が手を伸ばす。真っ赤に色付いた木々は、この短い主演の季節を楽しんでいるようだ。  人々は木々を見上げ、その美しさに感嘆のため息をつく。空には白い雲がゆったりと流れていて、太陽はキラキラと眩しい。  そんな中、地面ばかりを見ている男が一人いた。 「大丈夫スか、恋糸さん」 「だ、大丈夫だよ……」  恋糸はゼェゼェと息をしながら、山を登っていた。銀河は、二歩先をふらふらと進む恋糸の背中に手を添えながら、心配そうに彼についていく。 「いけないはずない……! だって俺は数年前まで、ここを一日百往復くらい平気でしてたんだぞ……」 「き、休憩しましょう……。恋糸さん、体力落ちてんスよ、ひきこもりだから……」 「ひきこもってねーよ」  そんなことを言いながら、恋糸はそばにあったベンチに腰掛けた。なんだか、足が震えているような気さえする。恋糸は、目の前に立っている銀河の手を引いて、隣に座らせた。 「はあ……。体力って、つけるのは大変なのに落ちるのは一瞬だな」 「面白いスね」 「ってなんだよ。この流れで俺がおもしれーって言うわけないだろ」  銀河はくすくすと小さな子どものように笑い、バッグからペットボトルを取り出した。 「水飲みますか?」 「お、気が利くじゃん銀河ぁ」  銀河は自慢げにペットボトルを恋糸に手渡した。その顔がイヌみたいで、恋糸は吹き出して笑った。 「あはっ。お前……かわいいなぁ……!」 「……なんスか。不愉快ス」 「なんだよ、褒めてるんだぞ? 笑っちゃうくらいかわいいってこと」  銀河は不機嫌そうだったが、恋糸が無理矢理頭を撫でると、仕方ないなという顔をした。 「はあ……。しかし綺麗だなー、ここは……」  恋糸は空を見上げ、息を吐く。澄んだ空気に、心が満たされるようだ。恋糸は目を瞑り、もう一度息を吸い込んだ。 「……この山なー、大学時代によく来てたんだよ。好きでさー……。早朝から日の暮れるまで写真撮って……」  恋糸は目を瞑ったまま、口の端で微笑んだ。 「あー、懐かしいなー……。もう、かなり人が増えちまった」  ここでは、耳をすまさずとも、観光客の声がざわざわと聞こえてくる。そのざわめきの隙間で、木々の揺れる音が、まだかすかに聞こえる。 「……前は少なかったんですか」 「そりゃ、誰もいないような山だったよ。アレだな、最近のインターネット写真効果は半端じゃないな」  恋糸はくつくつ呆れたように笑って、腕を組んだ。目を開けると、紅葉が嬉しそうに手を振った。 「……ここ、昔家に飾ってあった写真の場所に似てます」  ふと、銀河がそう言った。恋糸は、驚いて目を見開き、それから、ゆっくり納得した。 「へえ、どんな写真だ?」 「鹿の写真ス。真っ赤な紅葉の上に雪が降ってて……鹿がいるって写真……」 「はー……そりゃ綺麗だったろ」 「綺麗ス! 俺っ、ちっちゃいときはそれが一番好きで……っ。今はもう……どこにいったか分からなくなっちまったけど……」  銀河は、かつての日々を懐かしむように目を細める。銀河を慈しむ彼らの姿が、その目の奥に確かに見えた。恋糸は、銀河の頭をわしわしと撫で回し、立ち上がった。 「でかくなっても覚えててもらえるなんて、幸せな写真だなー」 「……俺がもっとちゃんとしてたら、なくなることもなかったと思うス」 「なくなったもんは仕方ねーよ。むしろ、なくなってもずっとお前に愛されてるなんて、羨ましいくらいだ」 「なんで恋糸さんが羨ましいんスか?」 「羨ましいだろ。お前に、こんなに愛されてるものなんてそうそうない」 「俺、恋糸さん一番好きスよ」  銀河が、にこりと笑った。  その言葉に、嘘偽りはないだろう。恋糸は銀河の肩を掴み、少し顔を近付けた。 「……俺の写真が?」  銀河は恋糸を見上げ、あっという間に赤面してしまった。恋糸はその顔を見て、胸が焼けるようだった。 「……ずっと好きでいろよ」  良い大人でありたい。けれど、俺は良い大人じゃないから、どう振る舞うのが正しいのか分からない。恋糸は、自分のこの姿を、汚らわしく思った。  銀河の頭を撫でると、彼は嬉しそうに目を細めた。  帰り道、バスはかなり空いていた。乗客は恋糸たちを含めて五人程度で、バスの中は、バスのエンジン音と車体の揺れる音だけが響いていた。  恋糸の肩の側では、銀河の頭がうつらうつらと揺れていた。 「……お前、俺といて楽しい?」 「ん……?」  恋糸が囁くと、銀河は目をしぱしぱさせながら、吐息混じりの眠そうな声を上げた。 「なんてスか……寝てて聞いてなかったス」 「いや……別に。いんだけど……」  恋糸は小さく笑った。 「……お前、俺といるより、なんか……やっぱ、同い年の子とかさ……そういう奴といたほうがいいよ」 「……んでも、俺、友だちいねス」  銀河はそう言ったあと、怪訝そうに眉をひそめ、首を傾げた。 「…………恋糸さん、この町嫌いなんですか?」  想定していなかった言葉に、恋糸は目を瞬かせた。 「なんか、ずっと元気ないスね……。ずっと思ってたけど……」 「……そうか?」 「何か、ここで悪いことでもしたんスか?」  恋糸は胸がドキッと跳ねた。目を伏せ、苦笑をこぼす。 「生まれてこの方、俺は悪いことはしてねーよ」 「そスね……。恋糸さんは悪いことはしねス」  冗談を言ったつもりが、思いがけない言葉を返され、恋糸は面食らった。その次の瞬間には、胸の奥から罪悪感が込み上げてきて、思わず言っていた。 「……お前のこと連れ回してるのは、多分……悪いことだよ」  その言葉に、銀河は目を閉じ、窓側に頭を傾けた。 「……眠いス。今聞きたくないです」 「聞けよ」 「嫌ス」  銀河はそっぽを向いて、窓に額を押し付け、俯いた。 「……悪いことじゃねス」 「…………おい。泣くか、お前……、そんなことで」  恋糸は驚いて、思わず、思ったことをそのまま口にしていた。銀河は、首を振りながら、真っ赤になった顔を伏せた。腕を目元に持ってきて、ぐすぐすと拭う姿を見ていると、恋糸の胸が酷く痛んだ。 「銀河……」 「悪いことですか……」  銀河の声が震えていた。  ――ああ、悪いことはするものじゃない。 「これが、悪いことなんスか、恋糸さん……っ」  銀河は、きゅっと小さく身体を縮こまらせ、そう言った。 「…………悪いことなのは、分かってんです。でも、悪くても、俺は恋糸さんが良いんです……」  銀河は、赤くなった瞳で、恋糸を見つめた。また袖口で涙を拭いながら、彼は肩を揺らしている。小さくなって、涙を堪えながら真っ赤になっている彼を、恋糸はじっと見ることしかできなかった。 「……どうしたって、俺は悪い奴にしかなれないな」  好意を持っている子どもに曖昧な態度を取りながら、彼のことを自分の都合の良いように連れ回すか、彼のことを突っぱねて泣かすことしかできない。自分は、こんなにも悪い大人になっていたのか。 「……泣くなよ、銀河。なにも、俺と一緒にいるなって言ってないだろ。俺は、他のやつと遊べって言ってるだけ」 「嫌ス」 「分かってるよ」  恋糸は笑った。 「お前は、俺といたいんだろ。なら、もう何も言わねーよ」  それで、自分に都合の良い方を取るのだから、本当に悪い奴だ。  これだけの選択肢があって、これだけの言葉があって、なぜ、彼を想った行動が取れないのか。  分かりきった答えを見ないように、恋糸はそっと目を閉じた。

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