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第五話③
名指しされた伝馬は見るからに呆気に取られていて微動だにしない。その戸惑ったような顔つきはどうすればよいかと真面目に逡巡 しているようだ。もう一人名指しされた勇太は言われた通りに「吸って! 吐いて!」と腕をでっかく広げて、古矢に負けず劣らず元気いっぱいに深呼吸をしている。
「綾野君いいね!」
と、古矢も親指でグーッドと示しながら、周りの迷惑も顧 みずにフルパワーで深呼吸の動作を繰り返している。
「……」
一成はドアを開けたまま、石のように立ち尽くした。一体いつからここで何をどうしてお前たちが深呼吸なんかやっているんだと、5W1Yが頭の中で炸裂して状況を把握するのに数秒かかった。しかし職員室にいる他の教師たちが努 めて大人の態度で見過ごしている中、古矢の席の向かい側にいる理博 がこの上なく不機嫌そうに睨みつけているのが視界に入った。その手には愛用の算盤 が見えて、おもむろに机から浮き上がったのに気が付き、一成は我を取り戻して古矢たちの元にすっ飛んで行った。
「どうしたんだ、お前たち」
まず古矢は無視して、伝馬と勇太に話を聞く。
「あの、先生に用事があって……」
「シンコキューしていました!」
と、それぞれ説明する。
「お帰り一成! 待ちくたびれたよ!」
古矢は腰に両手をやり爽やかに出迎える。
「暇だから、一成が来るまでみんなで体操して待っていることにしたんだ!」
謎に胸を張る。
「――そうですか」
一成は懸命にボコボコに言い返したくなる気持ちを抑えて、また教え子二人に聞いた。
「そんなに待ったのか?」
「……あの、そんなには……」
「全然待ってないです!」
伝馬は言いにくそうに、勇太はあっけらかんと口にする。
「そうなんだ! だから深呼吸から始めたんだ!」
古矢は天真爛漫 に言い添える。話が全然繋がっていないぞと一成は突っ込みたかったが、算盤を握りしめて口からシャーとヘビのように威嚇 しそうな理博の表情が視界にちらついて鬱陶 しい。古矢との会話は適当に打ち切って、改めて伝馬と勇太に向いた。
「で、用件は何だ」
「あ、えーと、この前のプリントなんですけれど」
「はい! 俺また忘れちゃって! すみません!」
勇太が明るく右手を上げる。
ああ、と一成は思い出した。提出期限が三日前のプリントだ。忘れたら今日までに出すよう伝えた。確か忘れたのは約一名。
「さっき思い出したんです! ゴハン食べたら気がついちゃって!」
「提出するのは明日でもいいですか?」
全く悪びれない勇太をフォローするように伝馬が話を進める。伝馬はきちんとプリントを出しているが、忘れてしまった勇太のために一緒に職員室まで来たのだろう。本当に仲が良いんだなと一成は感心した。おそらく自然体すぎる勇太を助けるために付いてきたに違いない。一成は自分の机に文庫本を置きながら、優しいなと思った。
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