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第五話⑫

 ――その次は期末テストか。  歩きながら夏休み前の主なスケジュールを頭の中で整理する。後ろから自転車に乗った学生たちが次々と一成を追い起していく。車もスピードをゆるめて注意しながら通り過ぎていく。  ――桐枝に声をかけられたのはこの辺りだな。  しばらくして歩調を落とし、住宅街の景色をゆるっと眺める。  ――そんなに俺は教師が似合わないのか?  この上なく真剣に聞いてきた伝馬を思い出して、声を洩らして笑う。  ――まっすぐなんだな、桐枝は。とにかく全てにまっすぐだ。  自分に対しても己の気持ちを尻込みすることなく告げてきた。  一成は夕日の影が落ちるコンクリートへ視線を落とす。微妙な影が表情をかすめた。  ――それが悪いわけじゃない。ただ……  深いため息がひとつ、吐き出る。  ――まだ若いんだ、桐枝は。  だから、わからないんだ。  一成は近づいてきた夜の気配に両目を伏せる。  ――俺もわからなかったからな。  今もわかっているかはわからない。  一成はふっと自嘲気味に笑う。馬鹿げたことに自分自身もよく理解できていない。恋とか。愛とか。好きとか。  軽く頭を振り払う。伝馬のことが浮かんだから、なし崩し的に浮かんできた。あの文庫本もだ。自分を(えぐ)る凶器だ。  足並みを早くした。マンションの一室へ帰って頭も身体も心も休もうと思った。  一台のメタリックグレーのアクアが道路の端を歩く一成をスムーズに追い越していく。夕方の混雑する時間帯は過ぎたので、歩行者や自転車の通行はあまり見当たらなくなってきた。  もう一台、スピードを落として通り過ぎていく。ブリティッシュグリーンの可愛いミラジーノだ。  ミラジーノは一成の少し手前で端に寄ると、ウィンカーをつけて流れるように停止した。  一成は足を止めた。まるで自分の行く方向を遮るように車が止まった。パッと見て、目にしたことのない車種である。知り合いではなさそうで警戒心が湧いてきた。  やがて運転席のドアが開いて、中から長身の男性が出てきた。キャメル色のジャケット姿だ。ドアを丁寧に閉めると、一成の方へ革製の靴の爪先を揃えて向いた。 「やあ」  男性は穏やかな微笑を浮かべる。 「久しぶりだ、一成」  親し気な声色(こえいろ)だ。  一成は驚きのあまり、言葉が出なかった。信じられないように目に力を込めて男性を見つめる。その表情は驚愕を通り越して強張っている。まるで恐ろしい夢でも見ているかのように。 「私を忘れてはいないはずだ」  一成が無言で立ち尽くしているので、男性は苦笑する。 「さあ、一成。私は待たされるのが好きではない。わかっているはずだ」  どこか自信に満ちた言い方に、一成は束縛が溶けたように息をついた。 「……ええ、もちろん。わかっています」  胸の動悸が激しい。死にそうなほどだ。 「お久しぶりです……深山(みやま)先生」  一成が絞りだすように言うと、深山(みやま)(えい)はまるで試験に合格した生徒を見つめる教官のように、祖父のイギリス人の血を受け継いだ端正な容貌で魅惑的に()んだ。

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