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幕間 出会う③

 一成はひとり口を閉じて見上げていた。少し前まであった反発や反感は、どこからともなくきた突風に吹き飛ばされてしまった。 「君は」  男性は丁寧に彫り込まれた頬を(やわ)らげる。 「新入生だな、当然だが」  返事を求めてはいない口調。 「まだ若いことに感謝するんだな」  皮肉そうに会話を閉じる。  一成は息をするのも忘れたように男性を見つめる。まるでそう命令されたように目を離さないでいる。いや、離せない。  不満も不快さも苛立ちもなかった。無礼で辛辣な物言いにも腹立つことはなかった。  ただただ圧倒された。  男性は蠟人形のように固まってしまった一成を見て、どこか不憫そうに息をつく。 「ああ、私の欠落しているところは、ここは傍若無人なロンドンではないということを失念してしまうことだ」  独り言のように呟くと、後ろの棚を振り返り、探すように少しだけ顔をあげて、天井から二段目の中央箇所にあったハードカバーの本をいとも簡単に取り出す。その本を片手で一成に差し出した。 「読みなさい」  無造作に渡された一冊。一成は借りてきた猫のように両手で受け取る。 「その本が君に幸運をもたらすだろう」  一成は表紙にある本の名前に目を落とす。しかしこの本がどうして幸運をもたらすのか、素直によくわからない。 「不思議そうな顔をしている君に、答えの一つを提示しよう」  男性は愉しんでいるようだった。 「私は日本史の教師だ」  本には「日本最古の歌集 万葉集」とある。  一成は両手でハードカバーの本を持ちながら、心の底で違和感が鎮火し切れていない残り火のように(くす)ぶった。外見は明らかに欧米人風の男性である。なのに当たり前のように日本語を喋り、日本史の教師で、万葉集を勧める。どうにもチグハグでおかしい。  すると、まるでその気持ちが伝わったかのように男性は静かに言った。 「目を上げなさい」  一成は何かの力で突き動かされるように顔を上げて男性を見た。  湖面のような淡い緑色の瞳が自分を射抜くように見つめていた。 「その本を読んだら、感じたことを私へ話しなさい」  ごく自然に言い渡す。  一成もまた何の迷いもなく頷いた。そうさせる雰囲気が男性にはあった。 「とても楽しみだ」  (えい)は満足げに美しい色合いの瞳で(たたず)む。 「君に、一体どのような幸運がもたらされるのか」  一成は耳に絡まってきた言葉を黙って聞いた。胸の中では、今まで感じたことのない緊張が生まれていた――

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