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第六話③
「一成」
ふいに呼ばれて、一成はシートの上で身構えるように背筋をまっすぐにする。
「何ですか」
榮は顎を下げて笑う。
「君は相変わらず素直だ。私へ向ける敵意も素直だ」
まるで青少年をあしらうような言い方に一成は苛立ちを噛み締めたが、表情は崩さなかった。自分を挑発している。そう感じて、気を静めて用心を深める。
「貴方への敵意ではなくて、警戒です」
故意に語調を強くする。相手へ不信感があることを知らせるためだ。敵意と警戒はまるで違う。
――俺は深水先生に敵意は持っていない。
もっと別なものだ。一成は少しだけ頬を歪ませる。
「謎だな」
だが榮は気にも留めない。
「少なくとも、私が運転する車の助手席に乗った人間が口にする言葉ではない」
どこか冷ややかさが潜む。
一成はさりげなく右手でお腹の下あたりを押さえた。胃の不快感は治まりそうもない。だが榮の隣でわざわざ胃が不調であることをアピールするつもりもない
――高校時代の俺だったら、生意気に真っ向から言い返しただろうな。
何も知らなかったから。
馬鹿だったと思ってはいる。しかしその馬鹿だった頃の高校生ではないというのに、碌 に考えもしないで車に乗ってしまった自分は何なのだろう。
「そんなふくれっ面 をするんじゃない」
榮はルームミラーへ目をやる。
「していません」
ほとんど無意識に否定し、内心自分はどういう表情をしているのか気になった。
――先生に振り回されているな……
胃がキリキリ、キリキリして、口に出せない気持ちを消化しようとしているかのようだ。
車は細い路地裏に入って行く。ヘッドライトが周辺を明るく炙 りだす。一方通行のような狭さだ。一軒家やアパートなどの住宅は道沿いにあるが、街灯も少なく人影もない。
「どうして教師になったんだ、一成」
慣れた手つきでハンドルを回しながら、榮は会話の続きのように聞く。
「貴方は、どうして教師を辞めたんですか」
一成はすぐに切り返す。おそらく聞いてくるだろうと予測はしていた。
「簡単だ。教師という職業に興味がなくなったからだ」
榮はあっさりと言う。それ以外の理由などないかのように。
「興味が失せたことに人生を費やすほど貪欲 ではない」
「……」
一成は身を硬くして押し黙った。
まるで鈍器 で殴られたような衝撃だった。
――貴方は……
覚えていないのかと、卒業式で自分へ言った言葉を。
いや、と振り払う。自分を動揺させるために口にしたのかもしれない。その目論見だったら成功した。自分はまともに相手の顔を見られない。――怖くて。
「それで、私への警戒は解けたか、一成」
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