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第六話⑥
榮の部屋は上層階にあり、エレベーターが止まったその階の通路の角側にあった。
オートロック式のクラシカルで奥行きのあるドアから入った一成は、脱いだ靴を手で揃えると、差し出されたベージュ色のスリッパを履いて室内へ足を踏み入れた。部屋は広くて明るく、清潔感に溢れさっぱりとしている。よくあるマンションの広告に出てくるオープンハウスのようだ――まるで生活感がない。
一成はキッチンがカウンターで仕切られたリビングダイニングを前にして、今から起こりうることを漠然と考えた。気分が悪い。だが、それくらいのことでは解放してくれないだろう。
――どうして。
片手で拳を握る。手のひらは汗ばんでいる。
榮はそんな一成を気にする素振りもなく、ジャケットを脱いでクローゼット内のハンガーにかけると、椅子に座るよう言った。
「お腹は空いていないか」
「いえ、大丈夫です」
一成はシンプルなデザインの天然木 の椅子に、気まずそうに腰を下ろす。空腹とかそんな生理的な現象など当に麻痺している。
「軽い食事を持ってこよう」
榮は一成の返事を聞かずにキッチンへ行く。
一成はキッチンへ背を向けて座ったまま、胸元に手をやり、ネクタイを軽くゆるめた。何とか気持ちを落ち着かせたいが、どうにも緊張が止まらない。
――今からでも立ち去ろうか。
背後からちょっとした物音が聞こえてくる。冷蔵庫を開ける音、袋を破る音、棚から皿を出す音……
――あの頃は、俺の好きなものを食べさせてくれたな……
ふいに浮かんでくる。高校生の頃はスナック菓子が当たり前のように好きで。定番のポテトチップスなどを食べさせてくれた。バクバク食べる自分を、榮は優雅に紅茶を飲みながら微笑んでくれた。その後は……
一成は右手でわき腹を押さえる。あの頃の自分は夢中だったんだと今更ながら痛感する。
――貴方だけを見ていた。
どうしようもないほどに。
ほどなく榮は一成の前にサンドウィッチを盛った皿を置いた。
「家にあるのは、ワインと紅茶とコーヒーだ。飲みたいのを選びなさい」
一成は一拍置いて答えた。
「コーヒーでお願いします」
二人きりの時は炭酸飲料も飲んでいたが、あれは自分のために榮が購入してくれたのだろう。榮が飲んでいる姿を見たことがないし、なんなら紅茶を飲んでいた記憶しかない。
「私も君と同じものにしよう」
榮はキッチンへ戻る。先生もコーヒーを飲むのかと、少々面食らったように一成も首を回して後を追う。
榮はカウンターでガラス製のコーヒーサーバーに白いドリッパーをセットすると、それにペーパーフィルターを広げて、挽いたコーヒー豆を入れた。それから電気ケトルを沸騰させる。手慣れた様子だ。
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