68 / 79

第六話⑨

「それで、一成」  榮はカップを持ちながら、少しだけ小首をかしげてみせる。 「これで納得したか」  一成は膝に両手をつき、硬く微動だにしない。まるで自分を煽るかのような態度にも、真正面からまじろぎもしないで見る。 「あとはないのか」  榮はゆったりと椅子に背中を預けて(くつろ)ぐ。 「……そうですね」  膝上にある手のひらに熱がこもる。三白眼が挑むように鋭くなり、やや間を置いて――自分は冷静であると判断してから、一成はいつもと変わりない口調で言った。 「なぜ、突然俺の前に現れたんですか」  絶対に偶然なんかではない。確信している。 「卒業式の日に俺に背を向けたのに。貴方の目的は何ですか」     紅茶ではなくコーヒーまで飲みながら。 「俺と向き合って、俺を納得させて下さい、深水先生」  緊張で神経がおかしくなりそうになる。高校生の時だったら、とてもじゃないが聞けないだろう。実際にそうだったと一成は苦い味を噛み締める。だから委縮(いしゅく)しては駄目だと、ともすれば湧き上がってくる吐き気のようなものを呑み込んだ。  榮は一成をちらりと一瞥した。その目にはどこか謎めいた感情が見え隠れしている。 「君を納得させればいいのだな」  空になったカップを音も立てずにソーサーに置くと、一成へ向かって目をやわらげてたっぷりと微笑んだ。 「若者から男性となった君を見て、抱きたくなった」  相手を(から)め捕るような心地よい声が、静かな室内に流れる。 「とても魅力的な男性になった、君は」  眼差しが華麗な理不尽さを含ませて誘う。 「だから抱きたい。一成、君を」 「……」  一成は激しく喉を鳴らす。わずかに指先が震えて、神経が眩暈を起こす。――何を言っているんだ。心の中で罵倒が溢れ出る。俺を振ったのは貴方だ。俺がどれほど傷ついたかわかっているのか。貴方は俺を騙したんだ。踏みにじったんだ。  ――俺は本当に貴方のことが好きだったのに―― 「一成」  榮は優しく呼び寄せる。  一成は柔らかい鞭で打たれたように感情の泥沼から目を覚まして、目の前にいる榮を見た。  榮は表情を崩すことなく穏やかに言った。 「イエスと言いなさい」  それは逆らうことを許さない命令だった。  一成は壊れた人形のようにじっと榮だけを見つめ続ける。白くなった顔は過去に取り憑かれたように血色がなく――貴方は俺をまた惑わそうとしている――身体が身震いする。 「返事をしなさい」  一成は黙ってうなだれた。  (あらが)えないと感じた。 「わかりました」  ――再会した瞬間から、俺はもうどうしようもなくなっていたんだろうな……  榮の眩しいほどの残酷な魅力に。
ロード中
ロード中

ともだちにシェアしよう!