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第六話⑨
「それで、一成」
榮はカップを持ちながら、少しだけ小首をかしげてみせる。
「これで納得したか」
一成は膝に両手をつき、硬く微動だにしない。まるで自分を煽るかのような態度にも、真正面からまじろぎもしないで見る。
「あとはないのか」
榮はゆったりと椅子に背中を預けて寛 ぐ。
「……そうですね」
膝上にある手のひらに熱がこもる。三白眼が挑むように鋭くなり、やや間を置いて――自分は冷静であると判断してから、一成はいつもと変わりない口調で言った。
「なぜ、突然俺の前に現れたんですか」
絶対に偶然なんかではない。確信している。
「卒業式の日に俺に背を向けたのに。貴方の目的は何ですか」
紅茶ではなくコーヒーまで飲みながら。
「俺と向き合って、俺を納得させて下さい、深水先生」
緊張で神経がおかしくなりそうになる。高校生の時だったら、とてもじゃないが聞けないだろう。実際にそうだったと一成は苦い味を噛み締める。だから委縮 しては駄目だと、ともすれば湧き上がってくる吐き気のようなものを呑み込んだ。
榮は一成をちらりと一瞥した。その目にはどこか謎めいた感情が見え隠れしている。
「君を納得させればいいのだな」
空になったカップを音も立てずにソーサーに置くと、一成へ向かって目をやわらげてたっぷりと微笑んだ。
「若者から男性となった君を見て、抱きたくなった」
相手を搦 め捕るような心地よい声が、静かな室内に流れる。
「とても魅力的な男性になった、君は」
眼差しが華麗な理不尽さを含ませて誘う。
「だから抱きたい。一成、君を」
「……」
一成は激しく喉を鳴らす。わずかに指先が震えて、神経が眩暈を起こす。――何を言っているんだ。心の中で罵倒が溢れ出る。俺を振ったのは貴方だ。俺がどれほど傷ついたかわかっているのか。貴方は俺を騙したんだ。踏みにじったんだ。
――俺は本当に貴方のことが好きだったのに――
「一成」
榮は優しく呼び寄せる。
一成は柔らかい鞭で打たれたように感情の泥沼から目を覚まして、目の前にいる榮を見た。
榮は表情を崩すことなく穏やかに言った。
「イエスと言いなさい」
それは逆らうことを許さない命令だった。
一成は壊れた人形のようにじっと榮だけを見つめ続ける。白くなった顔は過去に取り憑かれたように血色がなく――貴方は俺をまた惑わそうとしている――身体が身震いする。
「返事をしなさい」
一成は黙ってうなだれた。
抗 えないと感じた。
「わかりました」
――再会した瞬間から、俺はもうどうしようもなくなっていたんだろうな……
榮の眩しいほどの残酷な魅力に。
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