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第九話⑤

「いい子だ」  榮は冷たく言い放つ。  一成の肌がわずかに震えた。だが唇を強く結んで顔を逸らした。榮を目にしていたら、感情がかき乱され、身体が否応なしに思い出す――自分が女のように抱かれていることを。 「――帰ります」  もっと言いたい気持ちはあるが、これ以上榮を前にしていたら、平静でいられる自信がまるでない。一成は心の隅に(くす)ぶるものから目を背けるように、背中を向けた。 「帰るのか」  榮の言葉が意外そうに紡がれる。 「残念だ」  とても穏やかな声だった。  一成はドアを前にして、背を向けたまま固まる。榮の声が身体に絡まり、身動きできなくさせようとする。それは絹のように優雅で良質なのに、縄のように頑丈で、しなやかに誘惑する。  ――振り返るな。  唾を呑み込み、胸の動悸を落ち着かせた。振り返っては駄目だ――一成は考えるよりも早くドアを開き、通路へ飛び出て、手早く閉めた。  通路は人気がなく、隅々まで静まり返っている。LEDライトの照明が異様なほどに眩しい。  数秒、ドアを背にして立っていた一成は、暗い表情のまま足早に立ち去る。まるで迷路でさまよっているのに気がついて、急いで出口を見つけ出そうとするかのように。 「最近、先生は忙しそうだ」  二時間目の授業が終わって、次の授業が始まる十分間休みに、後ろの席から圭が伝馬の席へ来て、ふらっと洩らす。  伝馬は日本史の教科書をリュックに入れながら、何とも言えない表情になる。落ち込んでいるような、情けないような、納得がいかないような――でも寂しいような。 「先生は、いつだって忙しいもんな」  どこか棘の入った言い方に、口にした伝馬自身がびっくりして、そんなつもりじゃないのにと気持ちが水没する。 「自棄(やけ)になっちゃダメだ、伝馬」  圭は周囲の騒々しさにちょっとうんざりしながら、伝馬をさりげなく見守る。  十分間休みとはいえ、一秒たりとも騒ぐ手間を惜しまない男子校の教室は、とにかくうるさい。そんな中で、伝馬は一人、陰鬱(いんうつ)だった。  ――先生は忘れているんだ、きっと。  先程まで日本史の授業だった。担当教師の一成はいつも通り三白眼をつり上げながら、眠たそうな生徒たちに日本史を叩きこんでいた。終了のチャイムが鳴って、一成はこれまた平常運転で頭痛に耐えるような面持ちで教室を出て行った。  ――ていうか、俺は視界にも入っていなかったみたいだし。  いや、正確には、一成が教科書を見ながら質問をして、伝馬が手を挙げた。「よし、桐枝」と指名され、内心弾むように答えた。だが「その通りだ」とごく平凡に言われて終わった。  ――みんなの前で励ましてもらいたいわけじゃないけれど。  いまだに一成からクラス代表になったことへの励ましのお言葉を貰えていないことに、一貫してへこんでいる伝馬である。さすがにくよくよしては駄目だと自分に言い聞かせてはいるが、いかんせん、無理だった。

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