110 / 114

第九話⑬

 伝馬は一成をずっと見つめている。一度も瞬きをしないので、それこそ息をしているのか心配になるレベルだ。一成は大丈夫かと伝馬の様子を窺いながら、肩から手を引いた。 「――先生」  ほどなく伝馬は声を上擦らせて、俯く。 「ありがとうございます」  そのまま頭を下げた。 「そんな堅苦しく受け取るな。リラックスしていけ」  一成は気楽に言う。頼まれごとを忘れていた自分が悪いので、伝馬が訪ねてきてくれて良かったと逆に感謝したくなった。 「先生」  伝馬は改まったように、規律正しく背筋を伸ばす。 「俺も……先生に話したいことがあるんです」 「何だ」  一成は気軽に返事をしながら、伝馬の様子に首をかしげる。なにやら、深刻そうな感じだ。先程まで硬かった表情は、ひどく真剣な色合いを帯びている。 「あの、俺……」  そわそわして落ち着きがない。 「どうした、何かあったのか」  激励を受けに来ただけではないようだと、一成は訝る。別の相談事であれば、じっくりと話を聞いて対応しなければならない。誰もいないソファーに視線を走らせた。 「俺、その……両道会にクラス代表として出場したら、先生に……」  伝馬は言葉を切って、顎を引き、考え込む。どこか思い詰めた表情だ。  ん? と一成の脳裏に過去の記憶がS字フックで引っかかる。前にも似たような表情を目撃したような気が―― 「いや、やっぱり……出場したらじゃなくて。俺が一学年のクラスで優勝したら」  伝馬は思いついたように顔を上げて、一成を見る。ひたむきな眼差しが熱い。  今度は一成の心がそわそわする。ヤバいと直感した。 「俺が優勝したら――もう一度先生に!」  ここで、相談室のドアがタイミングよく開いた。  助かったと、一成は真顔で振り向く。ずけずけと入ってきたのは、順慶だった。 「お、何か相談事か」  順慶は室内の空気などお構いなしに二人を交互に見て、自分の机に向かう。放課後だが、白いワイシャツにスーツ姿である。 「どうした、筒井先生」  さすがに生徒の前でじいさん呼ばわりはできない。放課後なのに珍しく柔道着に着替えてはいない順慶に、何か用事でもあるのかと思った。 「忘れ物を取りに来た。最近年のせいか、忘れっぽくなってな」  机の上に転がっていた使い古しのボールペンを手に取り、それをワイシャツの胸ポケットに差し込んでクリップで留めた。 「あまり遅くならないようにしろよ。ご両親が心配するからな」  一成にニヤリとし、伝馬にも目で笑いかけると、颯爽(さっそう)と相談室を出て行った。

ともだちにシェアしよう!