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episode6 素直になれなくて

「日下部は藤野先生みたいな人が好きなのか……」  あれ以来、その言葉がグルグルと頭を駆け巡る。  それは勤務中でも頭の片隅にこびり付いていて、なかなか離れてくれない。  無意識に日下部を探してしまうし、見つけたところで話しかけることもできずに逃げ出したくなってしまう。そんなことの繰り返しだった。  ただ、手術の時だけは日下部を忘れることができる。あのピンッと張り詰めた世界に、今日も俺は逃げ込んだ。 「あー、疲れたぁ」  今日の手術は難航した挙句に、8時間を超える大手術となった。明日はパンパンだし、喉はカラカラ……手術室用の帽子でついてしまった前髪の癖を、クシャクシャと手櫛で掻き上げる。 「今日、日下部仕事かな……」  手術室から出てしまえば、一気に現実に引き戻されてしまう。あいつのことが気になって仕方ない。  なんにせよ、時刻は夜の9時を過ぎている。仕事だったとしても、もう帰ってしまっただろう。 「もしかしたら、藤野先生と一緒にいたりして……」  急にザワザワと胸騒ぎがする。  彼女は肉食っぽいし、日下部はおっとりしてるから、藤野先生が本気を出せばすぐに喰われてしまいそうだ。 「嫌だな、そんなの……」  無意識に唇を噛み締める。 「嫌だな……」  鼻の奥がツンとなって目の前がユラユラ揺れる。慌てて込み上げてきた涙を手の甲で拭った。 「先生」 「……え……?」 「月居先生」  ふと顔を上げれば、スクラブを着た日下部がいた。 「先生、お疲れ様でした。随分時間かかりましたね」 「なんで?お前、まだ帰ってなかったのか?」  事態が飲み込めない俺のことを気にする様子もなく、癖のついた俺の髪を優しく撫でながら「すごい髪型だな」って笑っている。 「まさか……待っててくれたとか?」 「別に待ってなんかいませんよ。今日先生が手術してくれた患者さん、俺の受け持ちだったんです。だから心配で」 「そ、そうかよ。そうだよな、待っててくれるわけねぇよな」 「え?もしかして待ってて欲しかったとか?」 「べ、別に待ってて欲しかったわけじゃ……」  俺の顔を覗き込んで悪戯っ子のように笑う日下部を見れば、顔から火が出そうになる。  さっきまで手術室で8時間も見ていた心臓が、ドキドキと高鳴って……息が苦しい。この場から逃げ出したくなった。 「嘘です。本当は待ってたんです」 「日下部……」 「先生が心配で、待ってました」  少しだけ頬を赤らめて笑う日下部は、悔しいけど凄くかっこいい。  もう、心臓がうるさい。 「お前に心配されるなんて心外だ!俺が失敗するわけねぇだろう?」 「ふふっ、そうですね。じゃあ、先生の顔を見れたことだし、帰りますね。お疲れ様でした」  ペコッと頭を下げて背を向けた日下部が、少しずつ遠ざかって行く……その光景に、俺の心は駆り立てられる。  行っちゃう……あんなに会いたかった日下部が、行っちゃう……。 「日下部!」  咄嗟に引き止めてしまったことに、自分が1番驚いてしまう。びっくりしたような顔で振り返る日下部に、何を言ったらいいかわからず俺は俯いた。  呼び止めてしまったことを、強く後悔する。  どうしよう、どうしよう……。 「先生……」  その瞬間、日下部がフワリと笑う。その笑顔があまりにも綺麗で、吸い込まれそうになった。 「疲れたなら、抱っこしてあげましょうか?」 「なッ……」 「ほら、抱っこ」  そう言いながらフワリと抱き締めてくれた。その瞬間、俺の心臓が止まりそうになる。  青白い月明かりが、普段誰も来ることのない廊下を静かに照らして……自分の心臓の音が、やたら鼓膜に鳴り響いた。 「よしよし、頑張りましたね」 「俺、汗臭いから……離せよ」 「大丈夫。全然気になりませんから」  そう言いながら俺の首筋に顔を寄せて、クンクンと鼻を鳴らす。 「先生、いい匂い」 「やめろ、離せ!」 「嫌だ、離しません」  そう言いながら、更に腕に力を込めて抱き締められる。 「離せよ、嫌だ」  文句を言いながら日下部の腕の中で暴れて見せるけど……。  お願い、離さないで。  そう強く望む自分もいる。  でも最後はなかなか離そうとしないから、全身から力を抜いた。 「疲れた……眠い……」  そう言いながら、日下部の背中に腕を回してギュッとしがみついてみる。やっぱり、こいつの腕ね中は安心する。 「疲れたなら、俺ん家のが近いから家に来ますか?」 「嫌だよ、めんどくさい」 「えー!ケチだなぁ」 「それより、さっきみたいに頭撫でて……」 「はいはい、わかりました」  あぁ、やっぱりこいつの手も唇も、めちゃくちゃ好きだ。  言葉になんか出さないけど、俺はそう思って、日下部にそっと体を預けた。

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