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episode8 あったかい
「ああ……やっぱり厳しいか……」
机に並ぶ検査データを見て、俺は小さく溜息をつく。
この患者は[[rb:杉山佳奈 > すぎやまかな]]さん、34歳。妊娠と同時に乳癌が見つかった。見つかった時には既に最終段階であるステージ4。あちこちに癌が転移している状態だった。
彼女はどうせ死ぬなら……と出産を希望。1ヶ月前に元気な男の子を出産した。
出産が終わった彼女を待っていたものは、楽しい育児でも親子3人での楽しい生活でもなく……癌との闘病だった。
妊娠中、癌の治療は中断していたため更に進行し、もう取り返しとつかない段階となっていた。
「先生、私赤ちゃんと旦那さんの為に頑張りたいんです」
そう笑う佳奈さんを久しぶりに見たけど、衰弱しきっていて、もう長くはないことが見てとれた。
それでも何とかしてやりたい……。
手術に踏み切り、残り少ない体力を消耗するか。
それとも緩和ケア(積極的な治療はせず、痛みや苦痛症状を取り除き、その人らしい最期を迎えるための治療方法)に切り替えて、穏やかな時間を過ごすべきか……。
悩んでも答えなんか出るはずもない。
癌は刻々と彼女の体を蝕んでいるのだ。
「先生、また杉山さんですか?」
「え?あ、うん」
「抗癌剤も放射線も効果なさそうですね」
「全然ないよ。でも……なんとかしてやりたいんだ」
「そうですね」
悲しそうな顔をして俯く日下部を見て、胸が締め付けられる。
看護師は俺達医者と違って、患者により近い場所にいる。きっと思い入れも深いことだろう。
「ついさっき、旦那さんが赤ちゃんを連れて面会にきてましたけど、杉山さん……もう赤ちゃんを抱く力もありませんでした」
「そっか……」
「俺、切ないです」
「うん。切ないな……」
今にも泣き出しそうな日下部の頭を撫でから、そっと抱き締めた。
杉山さんが出した答えは。
「月居先生、手術をしてください。全部は無理かもしれないけど、取れるだけ取ってほしいんです。私、子供の為に1日でも長く生きたいから」
「そうですか」
「お願いします!手術をしてください」
「………………」
「即答は致しかねますので、検討させてください」
そう告げた俺に、佳奈さんは何度も「お願いします」と頭を下げ続けていた。
その後、旦那さんと話し合ったり、色んな職種が集まりカンファレンスも開かれた。
その結果で出された答えは……本人が望む手術をする、というもの。でもそれは、彼女の寿命を縮める行為でもある。俺の心は大きく揺れた。
「先生」
「あ、日下部……まだ残ってたのか?お前夜勤だったんだろ?」
「はい。先生に挨拶してから帰ろうと思って」
「そっか、帰るのか……」
なんだか寂しく感じて、思わず俯いた。
「大丈夫ですよ。先生には俺がついてます。もし杉山さんの手術するのであれば、俺が機械出しやりますから」
まるで俺の心を見透かすかのように、俺の指にそっと自分の指を絡めてくる。
あったかい……。
そのまま顎をクイッと持ち上げられたら、頬に日下部の吐息がかかる程の距離。
「先生……」
周りには誰もいない処置室で日下部と2人きり。
トクントクンと心臓が甘く高鳴る。もう少しで唇が重なる……というときに、白衣に入っていたPHSが静かな室内に響き渡り。
俺は一瞬で現実に引き戻された。
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