42 / 79
第42話『危機』
エレベーターの下りボタンを何度も叩き、サキは十階のフロアを走った。
すれ違った宿泊客の男と肩がぶつかったが、謝罪する余裕はなかった。
暑さで吹き出るものとは違う汗をかきながら、1002号室の鍵を解除する。
ドアを開けた途端、部屋から漏れ出た異様な香りにサキは顔をしかめた。
目に飛び込んできたのは、部屋の真ん中でうずくまっているヒロムだった。
「ヒロムさん!」
サキはもぞもぞ動いているヒロムの傍に駆け寄った。紅潮した体をもてあまし、ヒロムは服の上から自分の昂ぶりを抑えつけている。
(ヒートだ……!)
サキはこれがオメガのフェロモンか、と思った。発情したオメガの香りは、濃厚な香水を部屋中にぶちまけたような臭いだったが、アルファにはひどくそそられるらしい。
サキは部屋を見渡し、レイを探したが姿がない。
「ヒロムさん、レイは⁉」
ヒロムは答えず、うずくまったまま荒い呼吸をしながら呻くだけだった。
(レイ! レイはどこに行ったんだ⁉)
そのとき、がたん、と物がぶつかる音がした。音のした方に顔を向けると、浴室の方からだった。
サキは浴室のドアに駆け寄り、開けようとした。ところが鍵がかかっている。
「レイ⁉ いるのか⁉」
返事はなかったが、中にいるのは間違いない。
(どうしよう……! どうすれば……!)
ヒロムを横目で見ながらサキが唇を噛んだとき、
「おーい。どうなってる?」
と、呑気な久我の声がドアの外から聞こえた。サキは怒りでおかしくなりそうになった。
答えず、歯噛みしたままでいると、
「まさかサキも交ざってヤッてんのか?」
という、ふざけた物言いにサキはドアに向かって怒鳴った。
「うるさい! レイはあんたの思い通りになんかなってない!」
肩を震わせると、久我が声を低めた。
「ヒロムはどうしてる?」
「…………」
「ひとりで苦しんでんのか」
奥を見やると、ヒロムはうずくまったままだ。サキがいるからか自慰で解消することもできず、荒い息を繰り返している。
昂った身体を持て余す苦しみは、サキも充分知っていた。
「誰のせいだと思ってんだ!」
ドアに向かって叫ぶと、束の間のあと、久我が言った。
「ヒロムを連れていく」
ドア越しの声でも、はっきりと聞こえた。
「開けろ」
傲慢な態度に血液が逆流するかと思った。誰が開けるか、と反発したかったが、久我に託すしかないことは、サキもわかっていた。
腹立たしげにドアを開けると、久我は陰湿な笑みを浮かべていた。
部屋の前を通りかかった宿泊客が嫌悪の目を向けながら、鼻を押さえていく。
久我が部屋に入ると、ドアが閉まった。
「霧島は?」
サキは答えなかったが、無意識に浴室に目がいった。その視線を追って、久我は残念そうに言った。
「なんだ。閉じこもったのか」
そのままヒロムの傍に行き、顎を突き上げて見下ろした。
「ここまで来て逃げられるとは。情けねえな」
サキはその横顔を思いきり殴りたい衝動に駆られた。ところが久我がヒロムを抱き上げると、ヒロムは愛しそうに久我にしがみついた。
とろけた瞳には喜びが浮かび、久我の肩に頭を摺り寄せた。
その光景を見て、サキは愕然とした。
(利用されてるだけなのに、それでもあんな男がいいのか)
久我がヒロムを抱え、悠然とドアに向かって歩いてくる。サキは両手がふさがっている久我のためにドアを開けた。
悔しくて噛みしめた唇から血の味がする。すれ違いざま、久我は口端を上げた。
「せいぜい噛まれないようにしろよ」
閉まったドアに向かって、サキは思い切り拳を叩きつけた。ぎりぎりと歯噛みし、怒りに震えていたが、ハッとしてサキは浴室に駆け戻った。
ともだちにシェアしよう!