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第42話『危機』

エレベーターの下りボタンを何度も叩き、サキは十階のフロアを走った。 すれ違った宿泊客の男と肩がぶつかったが、謝罪する余裕はなかった。   暑さで吹き出るものとは違う汗をかきながら、1002号室の鍵を解除する。 ドアを開けた途端、部屋から漏れ出た異様な香りにサキは顔をしかめた。 目に飛び込んできたのは、部屋の真ん中でうずくまっているヒロムだった。 「ヒロムさん!」 サキはもぞもぞ動いているヒロムの傍に駆け寄った。紅潮した体をもてあまし、ヒロムは服の上から自分の昂ぶりを抑えつけている。 (ヒートだ……!) サキはこれがオメガのフェロモンか、と思った。発情したオメガの香りは、濃厚な香水を部屋中にぶちまけたような臭いだったが、アルファにはひどくそそられるらしい。   サキは部屋を見渡し、レイを探したが姿がない。 「ヒロムさん、レイは⁉」   ヒロムは答えず、うずくまったまま荒い呼吸をしながら呻くだけだった。 (レイ! レイはどこに行ったんだ⁉)   そのとき、がたん、と物がぶつかる音がした。音のした方に顔を向けると、浴室の方からだった。 サキは浴室のドアに駆け寄り、開けようとした。ところが鍵がかかっている。 「レイ⁉ いるのか⁉」   返事はなかったが、中にいるのは間違いない。 (どうしよう……! どうすれば……!)   ヒロムを横目で見ながらサキが唇を噛んだとき、 「おーい。どうなってる?」   と、呑気な久我の声がドアの外から聞こえた。サキは怒りでおかしくなりそうになった。   答えず、歯噛みしたままでいると、 「まさかサキも交ざってヤッてんのか?」   という、ふざけた物言いにサキはドアに向かって怒鳴った。 「うるさい! レイはあんたの思い通りになんかなってない!」   肩を震わせると、久我が声を低めた。 「ヒロムはどうしてる?」 「…………」 「ひとりで苦しんでんのか」   奥を見やると、ヒロムはうずくまったままだ。サキがいるからか自慰で解消することもできず、荒い息を繰り返している。 昂った身体を持て余す苦しみは、サキも充分知っていた。 「誰のせいだと思ってんだ!」   ドアに向かって叫ぶと、束の間のあと、久我が言った。 「ヒロムを連れていく」   ドア越しの声でも、はっきりと聞こえた。 「開けろ」   傲慢な態度に血液が逆流するかと思った。誰が開けるか、と反発したかったが、久我に託すしかないことは、サキもわかっていた。 腹立たしげにドアを開けると、久我は陰湿な笑みを浮かべていた。   部屋の前を通りかかった宿泊客が嫌悪の目を向けながら、鼻を押さえていく。   久我が部屋に入ると、ドアが閉まった。 「霧島は?」   サキは答えなかったが、無意識に浴室に目がいった。その視線を追って、久我は残念そうに言った。 「なんだ。閉じこもったのか」   そのままヒロムの傍に行き、顎を突き上げて見下ろした。 「ここまで来て逃げられるとは。情けねえな」 サキはその横顔を思いきり殴りたい衝動に駆られた。ところが久我がヒロムを抱き上げると、ヒロムは愛しそうに久我にしがみついた。 とろけた瞳には喜びが浮かび、久我の肩に頭を摺り寄せた。 その光景を見て、サキは愕然とした。 (利用されてるだけなのに、それでもあんな男がいいのか)   久我がヒロムを抱え、悠然とドアに向かって歩いてくる。サキは両手がふさがっている久我のためにドアを開けた。 悔しくて噛みしめた唇から血の味がする。すれ違いざま、久我は口端を上げた。 「せいぜい噛まれないようにしろよ」   閉まったドアに向かって、サキは思い切り拳を叩きつけた。ぎりぎりと歯噛みし、怒りに震えていたが、ハッとしてサキは浴室に駆け戻った。

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