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第44話『あの日のこと』
街路樹のイチョウが黄色に染まり、葉が落ち始めた。
秋晴れの日曜日、レイは夕刻前にバイトから戻り、ひと息ついていた。サキの記憶は戻ることなく、八ヵ月が過ぎた。
レイとサキは未だに同居しているが、一度同居解消の話が出た。そのときレイは半ば強引に同居を継続させた。九月の中頃のことだ。
サキが夕食後に同居の解消を申し出てきたとき、レイは微かに動揺した。
「由井浜で、おれが襲ったから?」
あの日、久我に嵌められて発情した。発情誘発剤を打ったオメガを突き飛ばし、浴室に駆け込んだものの、結局サキを襲ってしまった。その負い目はあった。
何度もうなじを噛みそうになり、サキから止めれらた。サキもまたレイに触発され、ヒートを起こしている。自分の匂いで発情したサキに、たまらない快感を覚えた。
しかし、お互いが発情した状態で、うなじを噛んでしまったら番になってしまう。
わずかに残った理性が、それだけはだめだ、と本能を押しとどめてくれた。何度も噛みそうになったが、サキがその都度「噛むな」と首をかばっていた。そのおかげもあって、噛まずに済んだ。
レイはこれまで、オメガを襲うアルファを軽蔑してきた。
自分はそんなことはしない、と心に誓い、過ごしてきた。だが、いざ発情を起こしてみたら、サキの匂いは甘美で、狂ったように彼を求めた。
たちが悪いのはオメガの発情と違い、一回欲を吐きだしたくらいでは治まらなかったことだ。
理性を保てるようになるまで、何度も抱いたせいか、サキは翌朝、チェックアウトぎりぎりまで眠っていた。
発情したアルファに耐えられるのはオメガしかいない。それなのに抱き潰してしまったのだ。レイはそんな自分を嫌悪した。
サキの同居解消の申し出に、レイが落ち込んでいると、サキは首を振った。
「おれがいいって言ったんだから、襲われたのとはちがう」
サキは続けた。
「そうじゃなくて。もともと、生活に慣れるまで同居させてもらうつもりだったんだ。もう半年経ったし、一人で暮らしていけそうだから」
そういえばサキはそんなことを言っていたな、と思い出した。そして、自分の言葉も思い出した。
「おれはサキの記憶が戻るまで、ここにいていいって言ったよね。もう記憶は戻ったの?」
「……いや」
「なら、記憶が戻るまでは、ここにいてほしい。それがおれの責任だと思ってるし」
レイが見据えると、サキはちょっと困った顔をした。レイは顔を曇らせた。
「……おれのことが嫌いになったんなら、しかたないけど」
顔をそらすと、サキは慌てたように言った。
「嫌いになんてなるわけないだろ。おれだってここにいる方が経済的に助かるんだ」
「だったらなんで、出て行くなんていうの」
「それは……記憶はいつ戻るかわからないし……。これ以上レイの負担になるのは、ちょっと、と思って」
「負担なんてない。家事もうまくやってけてるし。サキに不満がないのなら、ここにいてほしい」
サキがわかった、と言ったとき、レイはホッとした。サキのことは以前にも増して気になっていた。レイのヒートに付き合ってくれたからというだけではない。
話はサキが同居の解消を切り出す前に遡る。
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