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第45話『ざわめき』

由井浜から帰ってきた後、サキはそのことには触れなかった。だが、久我とは一悶着あった。夏休みが終わってすぐのことだった。 大学構内をサキと歩いていると、突然、背後からぶつかるように肩に手を回された。 驚いて振り向くと、久我だった。サキはあからさまに嫌な顔をしていたが、レイは無表情を貫いた。久我はレイの反応を楽しむかのように口元を歪めた。 「霧島」   久我とは身長がほぼ同じだ。ただでさえ暑いというのに、顔を寄せてきた。小声で囁く。 「発情した状態でオメガとヤるのは最高だったろ」 「!」 思わず顔が強張った。理性と本能が闘いながら、何度もサキを抱いたことが脳裏に蘇る。 レイは口を引き結んだ。久我はわざとらしく目を大きくした。 「まさかヤらなかったのか?」   久我は身体を離し、サキを見た。久我の声はサキにも聞こえたらしく、小柄な身体に怒りをまとっていた。 サキは睨みつけるように言った。 「ヤッたよ。それが?」   すると久我は我が意を得たりといわんばかりに、レイの肩を叩いた。 「自分はオメガを襲ったりしないって豪語してたくせに、ざまあねえな」   久我の言葉が刺さる。レイはぎゅっと拳を握った。発情誘発剤を使われたとはいえ、返す言葉がなかった。 それを見ていたサキは、久我との間に体を割り込ませ、レイの首に両腕を回した。 「勘違いすんな」   抱きつかれ、首元でかすかに漂ったサキの香りにどきっとする。 「おれが誘ったんだよ」   サキは久我を挑戦的に見た。 「あんたより何倍もいい男がすぐそばで発情してんだ。誘惑して当然だろ」   サキの戯言に久我は鼻で笑った。 「どうとでも言える」 「そうだな。あんたに教える義理もないしな」   サキが声を低めると、久我は肩をすくめて講堂に向かって歩いて行った。 サキはレイから身体を離すと「悪い」と言った。レイは小さく頭を振った。レイはサキがかばってくれたことに胸が高鳴った。 マンションの五階でも開けた窓から秋の虫の音は聞こえてくる。 サキはどこかに出掛けたらしく、『夕飯ないから』のチャットが入っていた。ソファーでぼんやりしてから、レイはひとりで夕食を摂り、部屋に戻って音楽動画を観た。 秋の夜長を漫然と過ごしていると、サキが帰宅した音がした。自室から顔を出すと、廊下で顔を合わせた。 「おかえり。コーヒー淹れるけど」 「うん、飲みたい。……あ、髪切ったのか」   背負っていたリュックを下ろしながら、サキが言った。 レイは午前中に髪を切りに行き、そのままカフェのバイトに行っていた。額で二つ分けにしていた長めの前髪と襟足をばっさり切った。前髪で額を隠したのは、中等部以来だった。 「いいじゃん。似合ってる」   サキはにこりと笑い、自室に入った。レイはくすぐったくなりながら、キッチンに行った。コーヒー豆を出していると、サキがやってきてソファーに腰を下ろした。 コーヒーメーカーに水を入れながら、 「どこに行ってたの?」 と尋ねると、サキは携帯を触りながら答えた。 「ユタカさんと映画観てきた」   レイは水を入れる手を止めた。 「ユタカさんと? ふたりで行ってきたの?」 「うん」 「夕飯も?」 「そ」 レイの胸がざわついた。口を結び、再び水を入れるとメモリ線を越えてしまった。   サキのバイト先である白河紙書店でユタカさんに会ったという話を聞いたのは十月のことだった。サキが言うには、ユタカさんは店主の孫だったらしい。   祖父から頼んでいた本が届いたと連絡が入り、取りに行ったところ、バイトをしていたサキと会ったのだそうだ。 ユタカさんの苗字は川上だ。店主の白河は母方の祖父だという。その後、シフトで一緒になったユタカさんに訊いてみたら、 「じいちゃんがバイトを雇ったことは知ってたけど、サキくんだとは思わなかったよ」   と、驚いていた。偶然で驚いたのはレイも同じだった。   ユタカさんはたまに店の手伝いをしているらしい。サキがバイトに入っていないときに行っているらしく、だから会うこともなかったと言っていた。   二人分のコーヒーがぽたぽたと落ちていく。 「映画、なに観てきたの?」 「『霧の魔法使い』ってやつ。知ってる?」 「知らない」 「原作はミステリー小説なんだけど、けっこう面白いよ。ユタカさんにおすすめされて読んでみたら、おれもハマってさ。映画もよくできてた」   サキの楽しそうな声を聞きながら、レイは戸棚からマグカップを取り出した。   落ちたコーヒーを注ぎ分け、ローテーブルに白のマグカップを置く。サキが、ありがとう、と笑った。 レイは視線を逸らして言った。 「おれも白河紙書店に行ってみたいな」 「お! ぜひ来て! 古本ばかりだけど、けっこうキレイだから」 「うん」 「ユタカさんも喜ぶだろうし」   レイは口端だけで笑うと、茶色のマグカップを片手に自室に戻った。サキの弾んだ顔に胸がチリチリしていた。

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