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第62話『サキの選択』

レイは、しばし開かないドアの前に立っていた。働かない頭のまま、隣の自室に戻った。 のろりと部屋の電気をつけ、ベッドに腰を下ろす。 (……拒絶された) そう思ったとたん、レイの胸がずきっと痛んだ。 床に敷かれたベージュのカーペットを見つめて考えた。   何か、しただろうか。 サキのヒートを鎮めるのは恒例になっていた。   サキが記憶をなくしてから、ひとりでヒートを過ごしたのは実は一回だけだった。 レイの誕生日にサキのヒートを鎮めてから、ヒートが来るたびにレイが声を掛けていた。   発端は、ヒート中にトイレに行こうとしたサキが夜中廊下に出たことだった。 這いずるような音が気になり、様子を見ようと部屋のドアを開けたら、四つん這いになっているサキと目が合った。 熱のこもった潤んだ瞳が怯えたように震え、立たない足で逃げるようとしたので、思わず掴まえてしまった。腰を掴んで引き寄せたら。 いい声を上げたので、どきっとした。サキの全身から芳しい香りがしていた。   よく考えると、あのときレイもサキの匂いに当てられていたのかもしれない。 ヒートから四日目で、わずかに漏れ出るオメガの匂いを嗅ぎ続けていたのだ。 レイはもがくサキを軽々抱き上げて、サキのベッドに運んだ。   小刻みに息をしながら熱い瞳で見つめられ、レイはベッドに上がってサキにまたがった。 「つらいなら鎮めてあげようか」   レイもオメガの香りに半身が反応してしまっていたが、平静を装った。サキは一瞬、迷うように目を泳がせたが、こくん、とうなずいた。   それ以来ヒートが来ても、サキは部屋の鍵を掛けなくなった。 『レイがよければ、鎮めてほしい』   そう言われている気がして、レイもまたサキの部屋を訪れていた。   由井浜の夜、サキを貪るように抱いてしまったあと、あの熱が忘れられなかった。 薬の力とはいえ、初めてアルファの発情がどういうものか経験した。 オメガを抱きたくて、獰猛になっていく自分がいた。 意志の力で制御できない本能の恐ろしさをそのとき知った。 自分自身が怖いと思っていたところに、サキが受け入れてくれたことは、本当にうれしかった。 アルファの発情はなかなか治まらなかった。 それでもサキは、逃げたりせず、抱かせてくれた。理性を失いかけていたとはいえ、サキのしなる身体と喘ぎ声は脳裏に焼きついている。   レイはあの夜を思い出しながら、ひとりベッドに上がった。 壁に背中をつけて、膝を曲げる。隣にはサキがいるはずなのに、音がしなかった。   レイは三ヵ月前のことを振り返ってみた。 由井浜の夜以降、ヒートが来たサキに触ろうとしたら、サキの目が震えるように揺れた。 身体が強張っていた。レイは自分が怖がらせている、と思い、感情がこもらないようにサキに接した。 「冷静だから、大丈夫」   そう言って、すぐにサキの中に吐き出して終わらせた。 サキは腕で顔を隠し、ありがと、と言った。 サキにとっては、つらい身体を鎮めてくれるだけの行為で、それ以上は求めていなかった。 それなのに。   白河紙書店での一件のとき、ヒートを起こしかけたサキをユタカさんに連れて行かれ、独占欲が湧いた。 レイにとってサキは初めての恋人で、初めての人だった。   別れを告げたことは後悔していない。 だが、大人びて落ち着きのあるサキと過ごしているうちに、以前よりも強い感情が生まれていた。    —ユタカさんに、とられたくない レイに芽生えた独占欲と嫉妬心は、そのまま、その夜の行為に移った。   恋人だったサキにしていたように、優しく触った。 甘えてくれないサキを甘えさせたかった。気持ちいいはず、そう思って愛撫してみたが、サキは乗ってこなかった。 快感があったのは間違いないのに、サキには不要な行為だったらしい。 正直、切なくなったが、自分と彼との微妙な関係を思うと、それもしょうがないと思った。 次は気をつけよう、そう思っていたところだった。 レイは壁に、こん、と後ろ頭をぶつけた。 部屋に鍵を掛けられた。 それはレイの処置は必要ないという意思表示だ。自分たちはもう恋人同士ではない。 第二性の性衝動をどう対処するかはオメガ当人が決めることだ。 アルファには頼らないという選択を、サキはした。 (それだけのこと) レイは胸に痛みを感じながら、目を瞑った。部屋の灯りがまぶたの裏を射す。 サキがいるはずの隣の部屋は、やはり静かで、物音ひとつしなかった。

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