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第63話『気まずい朝』
サキが目を覚まし、ヒートが終わったと思ったのは四日目の朝だった。
大きく伸びをし、携帯で時刻を確認したら、五時半だった。
病院で処方された薬はすこぶる効きが良く、ヒート中はほとんど眠りに落ちていた。
自慰をせずともよかったが、夢精はしていた。
サキは夢の中で、レイに抱かれていた。
汚れた衣類と汗まみれのシーツを持って部屋を出ようとしたとき、鍵を掛けていたことに気づいた。
(レイ……来たかな)
普段は声を掛けてからドアを開けるのに、ヒートのときだけはそっと入ってくる。
「サキ。鎮めてあげようか」
ベッドに腰掛け、横になってうずくまっているサキの耳元で、そう囁いてくれていた。
静かにスライドするドアの音を、サキはいつしか期待して待っていた。
だが、その思いは殺すと決めた。
部屋を出て、洗濯機を回してからシャワーを浴びた。
丸三日間、ほとんど何も口にしていなかったので、猛烈に空腹を感じた。
キッチンで目にした生食のパンをかじっていると、レイが起きてきた。
サキはどきっとしながら、何食わぬ顔で、「おはよう」と挨拶した。
「……おはよ」
レイはサキの顔を見ずに返事をすると、リビングの窓を開けた。朝の換気をするのはレイの日課だ。
十二月の冷気が入ってきた。
目玉焼きを二つ作っていると、レイがコーヒーを淹れるため、サキの横に立った。
レイは何も言わず、サキもヒートのことは口にしなかった。目玉焼きとベーコンの乗った皿をレイの前に置き、二人で向き合って食べた。
なんとなく気まずい雰囲気で朝食を終え、会話もないまま二人で大学に向かう。同じ講義をとっている日は、いつも一緒に出掛けていた。
レイは先に行くとも言わず、サキと歩調を合わせていた。
通学電車を降り、キャンパスに入ってもレイは話しかけてこなかった。
横顔を盗み見たが、不機嫌な顔でも、何か言いたげな顔をしているわけでもなかったので、気まずいのは自分だけかとサキが思ったときだった。
「よう、霧島」
突然、背後から声が掛かった。サキが声のした方を向くと、久我がレイの肩を抱いていた。
レイは立ち止まり、眉を顰めていたが久我を振り払おうとはしなかった。
レイは久我の横暴にいつも耐えている。久我もレイが抵抗しないことをわかっているようで、好き放題だ。レイの頭を叩きながら、
「サキはどうだ? こいつの腰使いはたまんないだろ? おれもよく知ってるよ」
サキに視線を送りながら口元に笑みを浮かべた久我を見た瞬間、サキの中で何かが弾けた。
「そんなに許せないか」
考えるより先に言葉が出ていた。久我は目を眇め、サキはその目を睨んだ。
「レイがあんたを学校に告発したことが」
卑猥な挑発に乗ったのはサキだった。
「サキ!」
レイが鋭い声を上げた。凍てついた風が頬を凪いでいく。久我の双眸が剣呑な色を含んだが、サキは構わなかった。
「アルファの薬を飲まずにオメガを発情させてたんだよな。そんな卑怯なことして、名門久我家の恥だと思わなかったのか」
「サキ、ダメだ!」
レイがサキの腕を掴んで引いた。しかしサキは止まらなかった。
「何が生粋のアルファだ。血筋しか取り柄のないガキが、いきがるな」
とたん、久我は目を吊り上げ、サキににじり寄った。
レイは強く腕を引き、サキを後ろ手にかばった。たたらを踏んだサキが顔を上げると、レイと久我が顔を突き合わせていた。
怒りに燃える目をした久我に、レイは低く言った。
「サキに手を出すな」
寒空の中、学生たちが遠巻きに見ていく。
しばし、二人は睨み合っていた。
レイの背に庇われたサキが後ろから顔をのぞかせると、久我は一歩ひいた。
暗い目でサキを見ると、踵を返して去って行った。その静けさが不気味だった。
遠くなる後ろ姿を見て、サキは息を吐いた。
「あいつ、しつこいな」
すると、レイが勢いよく振り返った。
「久我になんてこと言うの!」
珍しく声を荒げたレイに、サキは面食らった。
「だって、本当のことだろ」
「あんなこと言って、今度はサキが狙われるかもしれないんだよ⁉」
レイは苛立ちを隠さなかった。サキは指先で頬をかき、宙を見た。
「そこまで考えてなかった」
「考えてから言ってよ」
レイが妙に怒っている。サキは校舎に足を向けた。ぶつくさ言いながら付いて来るレイにサキは微笑みかけた。
「ありがとな」
「なにが?」
「かばってくれた」
「ああ……うん」
レイは照れくさそうに首に手を当てた。
喧嘩を売ったのはサキだった。なのに、立ちはだかってくれた姿が頼もしくて、胸がどきどきしている。
だが、同時に切なくなっていた。
サキはゆがみそうになった顔を見られないように、急ぎ足で校舎を目指した。
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