66 / 79

第66話『吉野春之という人物』

冬の弱い陽射しが入るリビングで、レイは茫然と座っていた。 サキが散歩に出かけてから、どれくらい経ったのかわからない。 よしのはるゆき、とレイは口の中でつぶやいた。 自由奔放なサキはもういなくなって、代わりに『ヨシノハルユキ』という人物になった。 信じられない、とレイは言ったが、心の中では本当にそうなのかもしれない、と思う自分がいた。   記憶を失ってからのサキの数々の行動は、何か一生懸命おぼえようとしているようだった。 電化製品の使い方がわからず、買い物の仕方もわからない。 「現金がない!?」  と、ひどく驚いてもいた。 むしろレイは現金など、博物館でしか見たことがない。 質問に答えると、便利だなとつぶやいたり、すごいと感心したりする。まるで何かと比べているかのようだった。 自分のことを覚えていないというのに、悲観することもなく、思い出せないことを焦る気配も見せず、日々暮らしていた。 甘いものが大好きだったのに、急に苦手になったこともそうだが、極めつけは第二性を知らないことだった。   レイはおもむろに立ちあがり、部屋の中をうろうろした。   サキの話を信じるとしたら、身体を重ねていたことが気になった。 レイはサキの身体を抱きながら、サキではない人を抱いていたことになる。 オメガのヒートを鎮めるアルファの処置ですら抵抗があるようだったのに、ヒートに乗じて恋人まがいな抱き方をした。 記憶が戻ったらどうなるのかな、といつも頭の片隅をよぎっていた。 だが、サキがサキでないのなら、『彼』はレイとの性交をどう思っていたのだろうか。   レイを縛りたくない、と彼は言った。 『泉サキ』としてレイと関わることに限界を感じたのなら、これからは『吉野春之』という人として接していけばいいのだろうか。 そうすれば、サキは出て行くことなく、ここにいてくれたりするのだろうか。   そこまで考え、レイはうろつく足を止めた。  恋人だったサキは戻ってこないということよりも、今のサキを引き留めたいということばかり考えている。 レイは己の薄情さに自嘲した。サキが座っていたダイニングテーブルの椅子を見遣る。 (サキがサキでないのなら)   別れようと言った過去を気にして、躊躇する必要などない。   そう思った瞬間、レイの心は今のサキが好きだという思いでいっぱいになった。   いつか記憶は戻る、期限付きだと言い聞かせ、見えないように膜を張っていた気持ちがオブラートが溶けたかのように、あふれ出た。 レイはリビングのソファーに座り、背を埋めた。   午後を回った冬の陽光は、春の陽射しのように暖かく感じた。

ともだちにシェアしよう!