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第67話『信じる』
玄関の鍵が開いたのは、午後三時を過ぎた頃だった。
自室に戻っていたレイは、にわかに緊張した。リビングへ向かう足音を聞いて、レイもまた追いかけるように部屋を出た。
サキ、と口を開きかけて、つぐむ。
彼の呼び方がそれでいいのかわからなかったからだ。
レイが戸惑っていると、キッチンにいたサキが振り返った。
「コーヒー飲む?」
うなずくと、サキは流し台に置きっぱなしになっていたマグカップを洗い始めた。
レイは居場所に困って、ソファーに座った。
しばらくすると、サキが茶色のマグカップを持ってきて、ローテーブルに置いてくれた。
コーヒーの湯気がくゆっている。
「ありがとう。……ハルユキ」
レイが小さな声で言うと、白いマグカップを片手に立っていたサキは目を開き、くすっと笑った。
「なに。与太話に付き合ってくれんの」
レイはそのおどけた調子にムッとした。
「サキが本当のことだって言ったんでしょ」
言って、あ、と口を開いた。サキ、と呼んでしまった。
彼はゆっくり瞬きし、目元を柔らかくした。
「おれは『泉サキ』だよ。記憶を失くしているだけでさ」
穏やかな口調に、レイは、ああ、と思った。
(この人は、さっきの話をなかったことにするつもりだ)
それはダメだ、と直感的に思った。レイは真剣な眼差しを彼に向けた。
「おれは信じる。あなたが言ったこと」
見つめると、彼の瞳が一瞬、揺れた気がした。
静寂が流れる。窓の外から、かすかに冬鳥の鳴き声がした。
「……サキでいい」
彼が口を開いた。
「呼び方。今まで通りがいい」
サキは真顔で言った。レイがうなずくと、彼はふらっとその場を去ろうとした。
「あの!」
レイは引き留めるように声を上げた。
「家のことだけど」
半身を向けた大人の顔をしたサキに、レイは唾を飲んだ。
「おれは、サキとこれからも……一緒に暮らしたい」
言ってしまってから、緊張して心臓がどきどきと鳴った。レイは下唇を湿らせた。
「責任とか、そんなのじゃなくて……。ど、同居が楽しいから……」
射貫くように見てくるサキに、レイは恥ずかしくなって目を逸らした。
マグカップを両手で握る。コーヒーの色を見ていると、黙っていたサキは静かに口を開いた。
「おれといつまでも一緒にいたら、恋人もできないだろ」
頭上から降ってきた言葉に、レイはマグカップをすり落としそうになった。
鋭い胸の痛みに顔を上げられずにいると、サキはリビングを出ていった。
窓から入る冬の光は、か細くリビングを照らしている。
レイはマグカップをテーブルに置き、両手で顔を覆った。
サキの心が自分にないことに、胸が痛くてたまらなかった。
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