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シンヤは十六歳になったが、やはり夏休みと学期の区別もない日々を送っている。
相変わらずアベリアは一カ所だけくぼんで葉の薄くなった箇所があるし、夕顔もカラスウリもムクゲも夾竹桃もばかみたいに真っ白い。夏日の太陽光線を浴びて純白を一層光り立たせるものだから、まるで幽霊みたいな庭だった。そこかしこにミミズやカマキリや、コオロギの潰れた死骸が転がっている。巨大な蜘蛛の巣が、軒でむくむくと領地を拡大していく。
マサヤは黒髪をグリースで流して、薄い色つきのサングラをかけて縁側に座り、昼間からビールを飲んでいる。煙草は、ラッキーストライクからホープに変わっていた。
「マサヤくん、すいか」
「あい、あんがとー」
缶コーヒーのプルトップに煙草を押しつけて火を消すと、吸い殻を口に落とす。じゅっ、と小さな音が鳴ったので、すこしだけ飲み残したらしい。咎めるでもなく、三角形のすいかを乗せたガラス皿を置き、シンヤも縁側に座る。
「夕方から雨だって。競馬のサンちゃんが言ってた」
「じゃあ、庭の水まきはさぼってもいいかな」
「いいんじゃね? そんな飲めんだろ、人間だって。水」
「飲み過ぎると水中毒になるんだって」
「ほーぉ。物知りだねえ、シンヤは」
手を伸ばして頭をくしゃくしゃ撫でられると、シンヤはこころの底からうれしくなる。
眠るかソープに行くかの絢音よりも、マサヤと過ごす時間の方が圧倒的に多くて、この一年のあいだにシンヤはすっかりマサヤの信者になっていた。
そしてまた、マサヤもシンヤを猫かわいがりし、甘やかし、そして一日に何度も視線の炎で炙る。その情欲を宿した蒼い炎は骨の髄まで焼き、あたまのなかを痺れさせる。マサヤのどろんとした黒い視線がふとももに突き刺さると、痛いほどに皮膚表面がうずき粟立った。
そのやましい視線がシンヤの陶酔を生み、そしてシンヤはその視線を集めるためにわざとハーフパンツを履くことを好んだ。
なにかがおかしく、歪んだ生活。
どこを切り取っても濫りがわしい影が映り込む生活は、庭にも仏間にも縁側にも和室にも、階段にも、この家のそこらじゅうで薄弱に、しかし確かに脈打っている。
どこからか侵入したコオロギが、畳の上で死んでいた。けれど誰も気に止めない。それは皆口家ではふつうのことだった。
「マサヤくん、どうしていつもマニキュア塗ってるの?」
シンヤはうすく切ったすいかを手に取って、三角の頂点をかじった。なまぬるくて、異様に甘い果汁が口中にあふれ、顎に滴る。うす桃色の汁がふとももに垂れて、赤松の縁框にちいさな水たまりを作った。
「ああ、これ?」
すいかを摘まもうとしていた指を引っ込め、マサヤは目線を落とした。かぶとむしの背のように、つやつやと黒光りしている。
「これね、ひみつぅ」
悪戯めいた瞳を細め、口角を上げる。煙に巻かれた気がする。
「なんでさ。おしゃれじゃないの?」
毎日きちんと塗り直しているのか、そのマニキュアには欠けのひとつもない。指を揺らめかせると、光の筋が左右に身をよじる。
「おしゃれかあ。……まあ、それでもいいけど」
「いいけど、って」
ふてくされた声を漏らすと、マサヤの口角はさらに上がった。尖った犬歯が唇のかたちを歪める。
「俺は、記憶は爪に流れ着くと思ってんの」
「? なんで?」
「すぐ伸びんじゃん。それってさ、いやな事とか忘れたい事とかが爪に行き着いてぐんぐん育ってんじゃね? って思うワケよ。というより、思うことにしてんの」
シンヤは自身の両手の爪を見る。すこしだけ伸びた白い部分。ここに嫌なことが蓄積されて、そして伸びていく。
「そう思って、パチンパチン切んの。あーまた伸びてる、またいやぁな事が育ってるって思いながらね。だから毎日切っちゃう。切り過ぎちゃって、いやぁな事をすぐに取り除きたいからどうにかして切ろうとしちゃう。けどさ、そんなに毎日は切れないわけよ」
「うん」
「でもさ、切りたいのに切れないとさ、ウザイじゃん?」
「ウザイ……」
うざい、とマサヤは茶化す。
「だから、黒く塗って隠してんの。伸びてるのか気にしなくていいように」
「ふぅん……」
隠してしまえば、気にならないのか。目に入らなければ、気にしなくて済むのか。
シンヤはかつて通っていた学校で、切り裂かれた教科書や机に押し込められた汚物を発見すると、一度目を閉じていたことを思い出した。あのとき、一瞬だけ〝無かった〟ことにしたことを思い出した。きっとマサヤの言う、〝気にしなくて良いように塗り隠している〟というのは、それと同じことなのだろう。決してなかったことにはならないと知っていても、防衛本能が現実を遠ざけようとする。忘却させようとする。
マサヤが爪を切っているところも、マニキュアを塗り直すところも見たことがない。もしもその光景を見たとしたら、きっととても禍々しいシーンなのだろうと想像する。そのときの顔は、きっと、あのタールの瞳をしているのだ。呪いをかけるように、パチン、パチンと爪を切る。真っ暗闇の、うだる熱帯夜に。畳に置いたちり紙が闇にうすぼんやりと白く光って、その上に黒い半月のかけらが降り注ぐのだ。スノードームのように。
「ねぇ、シンヤはさ」
油蝉の声がふと途切れる。寿命でも尽きたのだろうか。
「もしも来世があるんだとしたら、生まれ変わりたいと思う?」
あまりにも唐突な問いに面食らうも、マサヤの横顔は懊悩を窺わせる真実味を帯びていた。飛び出しかけた揶揄を引っ込め、シンヤも青々と光る庭を見やる。喪った仲間の鳴き声を補うように、油蝉の声はひときわ高らかに蒼穹に響く。
「絶対に、嫌」
輪廻に組み込まれ、また生命を受けるなどまっぴらだ。
もしもまた生まれ落ちたのなら、マサヤと絢音がそばにいてくれたらいいなとは思うけれど。
「そっか。――――俺も、絶対に嫌」
予想していた言葉ではあったけれど、いざこうして本人の意思で拒絶を聞くと、少なからずショックを受けてしまった。
自分がそばにいても、輪廻は嫌なのだろうか。シンヤがともに輪廻に与するなら転生も悪くないと思ってはくれないのだろうか。
胸の中で涼やかな風鈴の音が鳴る。耳鳴りのような余韻を残すそれは、金剛鈴の音に酷似していた。かなしみと喪失感を与えられたとき、胸の中で鈴が高らかに鳴るのだと、シンヤははじめて知った。
頬杖をついていたマサヤが緩慢に身を起こし、ふたりの間に置かれていた皿を遠ざける。上体を折り、うすい唇がシンヤのふとももギリギリまで近付く。吐息が触れるほどの近さなのに、唇が触れることは決してない。
シンヤの足が、妙な期待と緊張にぴくんと張り詰めるのを、黒い眼は具に観察していた。
「きれいな足」
そう呟いて、マサヤは何事もなかったかのように上体を起こして元通り気だるく座り直すと、胸ポケットからしまったばかりのホープを取り出して火を付けた。
「傷とか付かないといいね、そのきれいな足に」
シンヤのかなしみなど素知らぬ顔で、マサヤは煙を細く吐き出す。まるでその白い塊は、魂が肉体から離れていくように見えた。
いつもこんな調子だった。あやうい雰囲気で翻弄するくせに、なんの決定打もない。
シンヤは意図的に落としたすいかの果汁を手で拭い、口で吸った。きっと、すぐに糖分でべたつく。そうしたら、それもまた使えばいい。マサヤを惹き付けるため、じりじりとした情欲を持て余すための材料にすればいい。
我が身はあますところなく樹液ゼリーなのだと思い込む。
虫はへばりつき、樹液を吸い尽くす。
ともに輪廻からこぼれ落ちてちりぢりになるのなら、なにもかもなくなってしまうまで吸い尽くしてほしいと願っている。
「シン、ほぉんとマサヤと仲良くなったねえ。最初はあーんなに距離があったのに」
仕事を入れなかった夜、風呂上がりに冷蔵庫前で牛乳を飲んでいると絢音がやってきて破顔した。手には発泡酒の缶が握られている。スーパーの、パンみたいなピザを食べながら呑んでいるのだろう。いつだったか、たくさん水分を取りながら食事をすれば後で戻しやすいのだと説明していた。
「うん。おもしろい、マサヤくん」
「そっか。……よかったじゃん。友達ができて。マサヤくん、子どもみたいな性格してるからあんまり年の差とか感じないでしょ」
けぷ、と小さく酒臭い息を漏らす絢音に、シンヤはあいまいな笑みを見せた。
「そうだね。……あ、ねえ、絢音さん」
「なあに?」
茶色の髪をフィッシュボーンに編んだ毛先を弄びながら、絢音はうすぐらい照明のしたで疲れた顔を向ける。涙袋に注入したヒアルロン酸が吸収されはじめ、わずかに皆口豊子の面影を映していた。
「絢音さんは、生まれ変わりたいって思う?」
マサヤと縁側で話していた内容がずっと頭から離れなかった。何の気なしに、考えていたことが口に出ていた。
「――――絶対に嫌」
しまった、と思う暇もなく、絢音の感情をなくした声がシンヤの後悔を吹き消した。
発泡酒の缶を握ったまま、瞳はどこも見てはいない。言葉が継げないシンヤの戸惑いを感じ取ってか、はっと幼さの残る顔に正気を取り戻す。
「あ、あはは。どうしたの、シン。そんなこと聞くなんて。へんなのー」
茶化す声の語尾が揺れている。あ、いや、とまごつきながらも絢音の変容に動揺してしまい、気の利いた台詞がまったく思い浮かばない。絢音の顔が砂嵐のようにぶれてマサヤの顔が重なる。
マサヤの、すべてを諦めた吐息を思い出す。
誰もシンヤとともに輪廻の渦に飛び込んではくれない。
「あ、あ……あのさ」
絢音が嫌がるのなら、それならもうシンヤにはマサヤしかいない。
「今日、一緒に寝てもいい?」
脈絡のない珍しいおねだりに、絢音は目を大きく見開く。
「え……、べつに、いいけど」
戸惑いと喜び半々といった表情で、絢音は苦笑する。十六歳の少年といえばかなり敏感で多感な時期だろうに、もしかしたら寂しかったのかもしれないと考えたのだろう。照れ笑いのような、揶揄を含む声音で鈴を転がしている。
絢音の想像は、あながち間違っていない。
シンヤが人肌を恋しがっていたのはたしかだ。
しかし欲しがっていたのはもはや、母の体温や気配ではなく、その隣でいつも眠っている、男の体温だった。
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