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蚊帳を張り、蚊取り線香に火を付ける。夜のもったりした重い空気のなかで、除虫菊は昼間よりずっと匂い立つ。
からっぽの仏間で、まっくらい天井を見上げている。
部屋中に張った蚊帳はまるで蜘蛛の巣だ。埃くさい夏布団にくるまって微動だにせず蚊帳のなかで寝転んでいると、罠にはまった蛾の気分を味わえた。暗闇に目が馴染むと、天井のいびつな円を描く木目の節が、羽を開いた蛾のように見えて仕方がない。
ここは巨大な虫の巣だ。天井に見えるのは、ふかふかした鱗粉がいまにもこぼれ落ちそうな、蛾の羽だ。差し込んだ月光に浮かび上がる埃は、もしかしたら本当に鱗粉なのかもしれない。
蚊帳という繭にくるまっていると、蚕になった気分になる。
この街で栄華を極めていた養蚕の歴史が、亡霊となっていま、シンヤを包んでいるのだ。大火で焼かれた蚕たち。勤労の生気を喪ったがらんどうの造船所。それらの亡霊は鹿影町に連綿と染み渡り、冷たい土から用水路までをとこしえに巡り続けている。
川の字のまんなかで横たわりながら、シンヤは一向に訪れない睡魔と取引をする。
もしも、背を向けて眠っているマサヤがこちらに寝返りを打ったのなら、今夜は眠れなくてもいいと。カンカン照りの昼間にお前を招いてやると、睡魔に耳打ちをする。
そしてヒュプノスは願いを聞き入れた。
マサヤは大きく伸びをすると、シンヤのほうへ身体を向き直したのだ。深藍の黒闇のなか、ぼんやりとした白目の光沢が星のようにきらめく。すっかり覚醒してしまったのか、寝釈迦仏のような格好で肘をつき、はんぶん微睡むまぶたを重そうに伏せている。もしもいま、その足裏を覗けば百八つの煩悩がくっきりと浮かんでいるのだろうか。それとも、涅槃を得て、いまこの瞬間のマサヤは濁った黒い瞳や妄執とは切り離されたたましいとして目の前に在るのだろうか。そう考えてしまうほど、目の前で横たわる姿はゆるやかな神性を帯びていたのだ。
重たげなまぶたが軽いまばたきを二度繰り返し、くっきりとした睫毛が上がる。音がしそうなほどに視線が合わさる。暗闇のなかで目を見開いているシンヤに驚いたのか、息を飲む音が喉から漏れ出て、ついさっきまで醸し出していた神性を消し飛ばした。
「おきてたの」
寝息を立てる絢音を起こさないように、マサヤはかすれた声でささやく。
シンヤは頷いて、わずかに身を寄せる。身じろぎにすら見えるかすかな距離の収縮を、マサヤは同じくちいさな身じろぎで遠のくことによって無に帰した。
かつては逆だった。マサヤが獲物を仕留める蛇の仕草で一気に距離を詰め、シンヤが後退っては喉仏に食らいつかれるという構図だったはずだ。それが今夜は、互いに気付かれないように距離感を探り合い、反発している。
悔しいのかかなしいのか寂しいのか、それともそのすべてを感じているのか、シンヤは拗ねて布団を鼻の上まで被る。なによりも心情を伝える器官であろう瞳を隠してしまわないのは、よしんば涙でもこぼれて同情を誘えないかという穢れた純朴さが胸のなかにあったせいだ。
蒸れた手を布団の外に出す。外気はもったりと湿気っている。熱帯夜一歩手前の、八月頭の夜。クツワムシが大きく鳴いた。きっと近くの小川には蛍が飛んでいる。泳ぐてのひらを、マサヤが握った。汗の浮いた、熱くて大きな手だった。
指の股と股がこすれあい、しかしその熱はすぐに遠のいた。大人の男の、皮膚の硬い、ざらついた手だった。
マサヤは背を向け、寝息も立てずじっとしていた。
その背に追いすがろうと思えば簡単にできるはずなのに、金縛りに合ったみたいに指の先すら動けずにいる。
きっと、マサヤはシンヤの背後の闇に絢音の呼吸を感じていた。
だから、わずかなふれ合いすら怖がった。
かつては暴漢のように階段で引き寄せたのに。
お互い、殺さねばならないと思ってしまうほどにひりついた防衛本能と、征服欲を隠そうともしなかったのに。
シンヤはもうなにも分からなくなった。
マサヤに対してなにを期待しているのか。
そして、なにを諦めているのか。
血の臭いを思い出す。血液のスノードームを幻視した夜のことだ。
あのときにしそびれたこと、躱してしまったこと。そればかりを悔やむ。
もしも、エンマコオロギが鳴いていた一年前の夜に、殴られ弱ったマサヤに馬乗りになっていれば…………。
首に手をかけていれば、もっと思うままに支配できていたのかもしれないのに。
怯えこそがもっとも強い記憶になる。
シンヤはマサヤの布団に音もなく忍び込んだ。
――――りり、りりりぃ、りり――――
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