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【曼荼羅】

【曼荼羅】 (1)  北浦真也が生まれた街は、中部地方の盆地にあった。田舎というほど寂れてはおらず、かといって都会と呼称できるほど栄えてはいない。車で十分程度も走ればそれなりの繁華街に出られる、住みやすく遊びやすい街に住んでいた。  上京したのは、高校を卒業したのち、就職場所を求めてのことだった。  大学への進学をせずに就職を決めた連中のほとんどは、工業地帯の主力である自動車メーカーの大型工場を狙っていたのだが、マサヤは工場勤務などまっぴらだった。給料も待遇も、このあたりの企業のなかではかなり良い方だったのだけれど、どうにも決められたルーティーンに沿った作業や、大人数での団体行動が苦手であったこともあり、メーカー工場は就職先の選択肢にはなから入っていなかった。  元来、子どもが好きなたちであったし、賑やかな子どもの声に囲まれているのが幸せであったので、将来は保育士になりたいと思っていた。とはいえ、漫然と考えていただけなので〝絶対になりたい〟、〝将来の夢です〟と言うには少しばかり情熱が足りなかった。結局、勉強が面倒で保育士という職業はたちどころに泡沫の夢として、マサヤの遠くを滑り落ちていった。  あれはいや、これもいや、と吟味をし続けているうちに無職期間が長引いた。安普請のアパートで日銭を稼ぐ生活に流れていったのはもはや必然であり、運命だった。はなからそういう性分だ。やる気もなく、怠惰な生活を好むたちで、安いジャンクフードやインスタント食品さえあれば一生、生きていけると信じていた。  上京して路頭に迷い、もはや台本に従うようにしてホストクラブに入店したものの、マサヤは酒に弱かった。そこそこ良い売り上げをたたき出せたのは最初の数日だけ。あとはもう目も当てらぬありさまだった。マサヤの人気が続かなかったのは、マメな営業ができない性分のせいだけではない。客をつなぎ止めようという堅実さも、上り詰めようという野心がそもそもないせいでもない。その下戸こそが、夜を遊ぶ男としての価値を貶め続けていた。  元々学生の頃からの趣味だった麻雀を頼りに、雀荘で働けるようになったのもまた、必然だったのだろう。  都会の繁華街、うらぶれた雑居ビルの地下にある雀荘は、『雀らいず』という名だった。地下に居を構えているくせに、サンライズをもじった店名を関していたのがくだらなくて即決。面接も採用もトントン拍子に進み、あとの人生はそう悪いものでもないかもと安堵した。給与も良い。待遇も悪くない。スプリットタンの、同い年の店員――――ユウリという名前だった――――と、割高な賃金で働ける深夜勤務のシフトに入って生活に困らないほどの給金をもらい、例のごとくギャンブルにも手を出した。  当時、雀らいずに出入りする客のほとんどはキャバクラや風俗店のケツモチをしているヤクザや、レンタルした事務所に籠もって詐欺行為を繰り返す反グレの連中ばかりで、一般の客はわずかにいるものの滅多に寄りつかない。というのも、そもそも雀らいずのオーナーがその筋の人間であったのだ。マンバンの剃り込み部分に、梵字のタトゥーをびっしりと刻んだ出で立ちは、堅気とは真逆の位置に者だと雄弁に語っていた。面接をしたのは店長だったので、マサヤが実際にオーナーの顔を見たのは勤務を始めてから数ヶ月後のこと。その貌の〝いかにも〟さから、おそらく面接官がオーナーであったのならその場で逃げ帰っていたのにと内心げんなりしたものだ。  ヤバイところに入ってしまったなあとは思ったものの、高収入だと思っていた地元の自動車メーカーの給料とは倍近く違う賃金をもらっていたので、そのままズルズルと雀荘での仕事を続けてしまったのは、やはりマサヤの怠惰で流されやすい性分によるところが大きい。時折届く、差出人のない小ぶりの花輪の底に、あやしい小包が隠されていることに気が付いた頃には、とっくに取り返しのつかないところまで来てしまっていた。マサヤは雀荘で働きながら、いつのまにか反グレ組織の一員に片足をつっこんでいたのだ。梵字のタトゥーを入れる日程まで勝手に組まれ、二度と堅気の世界には戻れないなと、遠い故郷を思った。そして、チンケな詐欺集団だと思っていたグループの元締めが、元を辿れば『蟋蟀(コオロギ)』という中華系マフィアと繋がっていると知るのにそう時間はかからなかった。 「北浦くん、俺ぁもう逃げるから。君も準備しておけよ。早く遠くに行った方がいい」  店長――――桂木が蒼白を通り越して紙色になった顔で、音が鳴るほどに震えながら耳打ちしてきたのは、とある冬のことだった。ユウリはここしばらく姿を見せておらず、てっきり無断で辞めたものだと思っていたのだが、どうやらマサヤの見立ては甘かったようだ。 「これ、ほら」  と言って桂木は差出人不明の胡蝶蘭の鉢植えを指さす。 「見てみて、底、はやく」  執拗に促され、いやな予感がじんわりと胸を占めるままに鉢を覗き込む。豪奢な造りの七号鉢は二重底になっている。慎重に鉢を引き抜き、マサヤは悲鳴を喉奥に迸らせながら尻餅を付いた。 「あっ? あ、あっ、あ、てん、て、店長、あれ、あれッ、あれ、あれは……!」  呂律が回らず、湧いた唾が気管に入って血反吐を吐く勢いで噎せる。呼吸の仕方を忘れ、狂ったように喘鳴を発する。  二重底には、油紙で包まれた指が入っていた。おそらく、両手両足すべての指だ。どれも粗雑に爪を剥がされ、むき出しの肉には小さく細い針が隙間もないほどびっちりと刺されている。本能的な想像でしかないけれど、きっと、それは指を切り落とす前に加えられた拷問だ。関節にはむき出しになった剃刀の刃が差し込まれている。これもきっと――――……。  底から転がり出た指が恨めしげにこちらを睨んでいる気がした。ご丁寧に小さな小袋には、無理矢理剥がされた爪が同梱されていた。爪には肉片の組織がこびりつき、乾燥している。小袋の内側に付いた血液がどうにも生々しくて気持ち悪い。そして、指の第二関節下には梵字のタトゥー。剥がされた爪には黒いマニキュアが丹念塗られていて、その二つの符号は切り離された指の本体がユウリだということをありありと証明していた。 「ユウリくん、〝運び〟の品を横流ししていたんだ。オーナーとグルで。しかも、尋問で『雀荘の従業員も全員加担している』って言いやがった! 仲間を教えろって言われて、いないって答えても信じてもらえなくて、それでそんな言い訳を……」  桂木は低く唸り、短い足でゴミ箱を蹴った。 「くそっ! くそっ! ふざけんな!」  行き場のない恐怖と焦燥と憤怒のままに、ぶちまけたゴミ屑を踏んで踏んで、踏んで蹴り飛ばす。それでも飽き足らず、雀卓を殴りつけ、きれいに積まれた牌をなぎ払った。 「真面目に生きてきたのに! やってきたのに! 赤字も出さなかったのに!」  もはや駄々っ子だ。次々に卓を蹴り、殴り、牌をまき散らしながら床に転がり、おいおい泣き始め、しまいには大量に嘔吐した。いつも冷静で、毅然とした態度の彼からは想像できない姿だった。  感情的に暴れる桂木とは対照的に、介抱する身では冷静になってしまう。いっそ狂ってしまえたら楽なのに。 「店長、行く当てはあるんすか」  肩を貸してやりながら、体液まみれの桂木を抱き起こす。 「ない、ないよ、女房には迷惑をかけたくない。俺ぁもう首を吊る。絶対に逃げられないよ。だって、だってあんな……」  執拗に痛めつけられたユウリの指に視線をやり、ことばを吐き捨てると何度も嘔吐いた。重い焼け石を飲んだように、マサヤの胃も収縮と鈍痛を繰り返す。 「諦めんなよ店長。なあ。どうにかなるよ。どうにか」 「なんねぇよ、北浦ァ。もう無理だ。最初から間違ってたんだ、こんな、こんな店」  声を上げて泣く年上の男に、マサヤの焦燥はさらにかき立てられてげんなりしてきた。 「あんな、ユウリみたいな拷問を受けるくらいならぁ、俺ぁ死ぬぜ。死んでやる。いますぐ死んでやる。捕まる前に死んでやる。だって俺、知らねーもん! そんな、クソ馬鹿野郎ふたりのせいで最悪な死に方するくらいなら、簡単な死に方してやる。やってやる。北浦ぁ」  続く言葉が聞きたくなかったけれど、肩を貸しているせいで耳も塞げない。 「一緒に死のう。一緒なら怖くない。な? な? 死のう! 今すぐ死のう!」  ひゃひぃ、という妙な笑いと、濁ったしゃっくりを挟みながら桂木は唄う。呪詛めいた、洗脳めいた節のついた口調に、完璧な吐き気がやってきた。 「ふざけんな! 俺は死にたくねえ! テメェは勝手にしろ!」  憐憫はとっくに苛立ちに変わっていた。焦点のあってない目で涎を垂らしながら「死のう」と唄う男を突き飛ばし、マサヤは闇の街を駆けた。  冗談じゃない!  死にたくないし、痛い思いだってしたくない。  絶対にしない。  それならば今すぐにでも逃げるしかない。

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