12 / 32

(1)

 簡単な荷造りをしてすぐに引っ越そうとしていたその日、――――ユウリの指が送られてきた夜が明け切らぬうちに、マサヤは短い記憶喪失ののち、埃っぽい部屋で目が覚めた。  あたまがぼんやりとする。覚醒しているのか、していないのか、夢なのか現実なのかまるではっきりしない。鈍痛を訴える頭を振って汗みずくの前髪を払うと、胃がしくしくと痛んだ。相変わらずひどい吐き気は継続しているのに、空っぽの胃ではなにも吐けない。この嘔吐感がしばらく続くのだと思うと、昨夜以上にげんなりしてしまう。  膜の張った視界が徐々に鮮明になるにつれ、いま居る部屋が自室でないことに気が付いた。嗅覚も、知らぬ臭いだと告げている。身を起こして、ぼーっとする。簡素な部屋だ。裸の電球がぶら下がり、打ちっぱなしのコンクリが三面を冷ややかに囲っている。天井はところどころ天板が破け、垂れ下がっている。微細に舞う埃がスノードームのようだった。 「おはようございます」  抑揚を持たない声は、背後からぬっとやってきた。誰かがつむじを見下ろしている。背後にぴったりとくっついて、弧にした目で見下ろしている。気配でそれを察した瞬間、『殺される』と確信した。  ああ、捕まってしまったんだ。  死にたくないとあんなにも強い意志で息巻いていたのに、背後の気配と声音だけで、いま自身が死を迎えつつあることを完璧に理解し、そして受け容れさせられた。声音だけで相手の希望と意思を手折るほどの力を、男は持っている。 「〝彼〟が言っていたよ。君も〝商品〟を勝手に売りさばいていたんだってね」 「ァ」  ちがう、と発したはずの声は、かぼそい呼吸にしかならなかった。緊張に舌が乾ききり、言葉を紡げない。壊れたおもちゃのように身体が震える。口枷どころか、身体すら縛られていないことがむしろ怖かった。そんなことをせずとも、自分は抗う気力すら湧かせてもらえないのだと、そう理解させられているようだった。 「いけないね。いけない。大切な商品を横取りするのは、泥棒だよね」  穏やかな、やわらかい口調と声だった。ふ、と息を抜いて笑む気配すら感じる。まるで子どもを諭す口調だ。立場の違いを浮き彫りにさせられながら、つむじにひんやりとした感触が伝わる。水滴かと思ったけれど、それは指の感触だった。つめたい、死体の指――――。  ひんやりとしたものが、頭上からぶら下がるようにしてマサヤの眼前に差し出される。 「あ、あ、あああ……」  むくんだ青紫色の指。指だけの生き物。爪は粗雑に剥がされ、むき出しの肉には無数の針が丹念に、執拗に刺されている。棘の生えた生き物のようなそれ。指の根元には、銀の輪っかがぎちぎちに嵌められている。  ――――店長の、結婚指輪だ。  ああ、彼もまた捕まってしまったのだ。  マサヤは自身が失禁していることにも気が付かない。腰から下の感覚が完全に消え失せ、ぐにゃんと上体が力をうしなう。傾いだ身体は、背後にたたずむ男の両足で支えられている。 「私たち蟋蟀は、結束と信頼を尊びます。お客様にお渡しするはずの荷物で私腹を肥やすことは、最たる重罪ですよね」  穏やかな死刑判決だ。 「あ、あ、れ、れも、おれ、れ、おれれ、おれは、やってな……なにも、なにも知らなくてぇ」  歯ががちがちと鳴る。夏虫のように、硬質な音を奏でる。男が満足げに笑う気配がした。 「それなら、証明してほしい。蟋蟀を裏切ったのではないと、私に証明してほしい。きみは、蟋蟀に準ずるグループの子でしょ? キタウラくん」  へ、へ、と犬めいた呼吸を繰り返しながら、マサヤは恐る恐る頭上を見上げる。裸の電球、剥がれた天井、ぶら下がるコードが視界を流れ、はじめにつややかに光る黒髪を認識した。そして、白い顎、細い鼻梁、すっと通る切れ長の目を見る。細く引かれた墨色のアイラインと、くれないの目弾きが怖ろしいほどの美貌を底上げしている。現実感の乏しい、細面のきれいな男だった。黒い手袋を嵌めた指が、桂木の指をつまんで道化のように揺らしている。 「しょう、めい……?」 「そうです。――――おい」  柔和な声から一変、男はどすの効いた声を部屋の扉に向かって発する。間髪を入れずに押し入ってきた数人の男は、暴れる麻袋を担いでいた。目を丸くするマサヤには目もくれず、麻袋は乱暴に投げられた。床で芋虫のように転がるそれは、大人が入っているとは思えない華奢なシルエット。これは……この大きさは、両手両足を縛られたハイティーンの〝子ども〟だ。 「〝これ〟が誰かとか、そんなことは気にしなくてもいいです。なんでもいいですから、とにかくこの袋を刺してください。それだけしてくれれば、許して差し上げますよ。逃がしてあげます。追いもしません。目をつむります」 「へ……?」 「あなたが加担していないことは知っています。あなたの直属の上司は……残念ながら横流しにずいぶんと貢献してくれていたようですけれどね」  男はつまらなそうに指を放った。なんの感情もない、ただ単に屑箱にゴミを投げるふうにして、ぽいと。  マサヤは混乱した。店長が実際に〝流し〟に加担していたことはもとより、そもそも男が要求してきたことにもだ。  刺せ? 目の前でかわいそうにすすり泣く、この子どもを? 「む、り………、れす」 「いいんですか? 断ればあなたを殺しますよ」  脅迫ではなかった。その声音は純粋に、「いいの?」と首を傾げる幼子のそれと酷似していた。だからこそ、その無邪気さが男の本音なのだということを知らしめている。  マサヤは唾を飲み込み、逡巡する。何をどう考えても、できるわけがなかった。 「どこを刺してもいいんですよ。ひとつ、一回だけ刺せばいいんです」  つまり、殺さなくてもいい……? 「さあ、考える時間をあげるほど私たちも暇ではないんです。早くしてください」  からんと軽い音を立てて眼前に転がったのは、大ぶりのナイフだった。カランビットタイプのそれは、刃が上部に向かって鋭く反っている。力を込めずとも、肉体になど簡単に沈み込んでしまう。静かな殺傷性を訴えかける姿をしていた。 「勇気が必要ですか?」  まんじりともしないマサヤに苛立ってか、男はそう言ってしゃがみ込んだ。あ、と思う暇もなく、鋭く熱い灼熱の痛みが左中指から脳天にかけてを稲妻みたく駆け抜けた。 「あぁぁああッ!」  つんざく悲鳴は部屋中に谺し、かすかに反響する。  男は血のついた長針を指先でくるくると弄び、マサヤの眼前でひらめかせる。 「やらなければ、あなたが刺されます」  耳朶に直接吹き込まれた声は、脳を震撼させた。この声が柔和だなんて、嘘だ。虚構だ。こんなにも冷たくて、硬くて、感情のない声はいまだかつて聞いたことがない。  麻袋がうごめく。うねうねと、芋虫そのままに。泣いているのは分かる。理解できる。人間だ。芋虫ではない。これは生きている子どもだ。どうしてこんな目にあっているのか、そしてどうしてマサヤに手を下させたいのか分からないけれど。  とめどなく涙がこぼれる。死にたかった。いまならば狂乱する店長の気持ちが痛いほど理解できる。

ともだちにシェアしよう!