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(2) 潮風は体液の匂いだ。  この街は体液で閉塞している。アパートもそのままにして飛び出し、寂れた田舎町を点々と移ろう日々は孤独であり、焦燥感そのものであり、そして生きながらにして死体になっていく過程を見つめ続ける地獄の放浪だった。  当時はまだこころの傷が瘡蓋にすらなりきらず、道行く人にまでいちいち怯えていた。東京にいた頃は賭け麻雀や競馬、パチンコなどギャンブルに給金をじゃぶじゃぶ使っていたのでろくすっぽ貯金すらしていなかった。路頭に迷う日がくるなんて夢にも思っていなかったのだ。  しかし運命というのは時にやさしい。日雇いの現場労働や単発の短期アルバイトをしながら、競馬場で清掃の仕事をしているサンちゃんと出会えたことは何よりも貴重な奇蹟だ。面倒見の良い彼の伝手で鹿影の安い民宿を紹介してもらえた時は、久方ぶりに感情が揺り起こされ、声もなく泣き続けた。宿を斡旋してもらえただけではなく、しばらくのあいだ破格の値段で寄宿させもらえることになったのは、マサヤがあまりにも疲弊した顔をしていたおかげか、それとも仏の情けか。    春に移り変わろうとする鹿影町を吹き抜ける風は、うっすらと湿っていて潮のざらつきを感じた。巨大な造船所跡は夜になるとあやしげな影が往来する。蟋蟀や半グレ連中が迎えにきたのかと怯えるマサヤの精神を、鹿影町は街全体を震わせて無遠慮になで回した。  どこへ行っても妄想の視線が突き刺さり、きれいな顔をしたサディストの男の、あのやわらかく冷たい声のまぼろしを聞いた。こころも身体も疲れ果て、死にたい死にたいと考え続けるマサヤに声をかけてきたのが、――――絢音だ。 「お話するだけでいいから、来て! 指名が入らないと、あたしクビにされちゃうの!」  まるで童話から出てきたお姫様のような出で立ちに驚き、そして天真爛漫さに押し切られるまま『双星(ふたほし)』という店に連れて行かれた。  絢音は自分の財布から金を引き出すとマサヤの手に握らせた。ぐいぐいと引っ張られ、わけも分からないまま薄紫色の部屋に入る。混乱する男を観客に見立て、絢音はひたすらに長広舌をまくし立てた。茶菓子代わりに、ふかふかしたジャムパンを握らされ、さながら公園で水飴片手に紙芝居を眺める童の気分だった。  話をするだけでいいというのは、真実らしい。長話を聞くのは疲れるが、金を払わないまま一時でも雨風をしのげるならありがたい。  渡されたジャムパンは指が沈むほど柔らかかった。濃紫と赤茶のマジックアワーを映したかのような爪を乗せた手で持っても傷口が痛まないほどに、柔らかい。簡素な甘みが身体中に染み入り、久しぶりに得た糖分に脳がざわざわと鳥肌を浮かべる感覚がした。ジャムは手作りなのか、いちごの種がつぶつぶと歯茎を刺激する。塊を残したままの果肉が舌の上で潰れる。パンは雲のようにやわらかいのに、小麦の風味がきちんと香ってもっちりと奥歯の上で軟体になり、濃いジャムと一緒くたになって溶けた。素直に、世界一おいしかった。 「美味しいでしょ、ミヤマのジャムパン」  得意げに胸を張る絢音の、身体の凹凸はきっとニセモノなのだと勘付く。歓楽街で働いていたころ、そういった女をよく見ていた。 「ね、名前、なんていうの?」  ひとしきり話し終えると、ようやく絢音はマサヤの素性が気になったようだ。そういえばアンタいたのね、という素っ気ない問いだった。三個目のジャムパンの最後のひとくちを飲み込み、本名を答えて良いものかと逡巡する。 「……マサヤ」  美人局のようには見えなかったので警戒するのもばからしく思え、本名を名乗った。 「マサヤ。そう、…………マサヤくんって言うの」  よほど顔に似合わない名をしていたらしい。絢音はまじまじとマサヤの顔を見つめ、何度か頷いて口の中で名を転がした。次いで漢字ではどう書くのかと問われ、それにも従順に答える。絢音はやはりこぼれそうなほどにまん丸にして、泣き笑いの表情を見せた。 「運命かもしれないね」  このときは絢音の表情の意味も、そして〝運命〟という大げさな言葉の意味に気付くことはできなかった。  その意味を知るのは、もっと後のことだ。    タイマーが鳴るも解放してはもらえず、マサヤは次第に焦ってきた。このまま退店させてもらえないままボーイとして雇われてしまうのではと勘違いしてしまうほど、絢音は生い立ちや普段感じている憤りを思いつくままに何時間も語り、そして二回も延長をしたのだ。ピンクのキャラクターの顔を象った大きなビニールバッグにはたくさんの菓子パンが入っていて、絢音はそれを貪りながらも器用に話し続ける。魔法のように、菓子パンは何個でも出てきた。そしてひとしきり語り、そして食べると髪を振り乱しながら備え付けのトイレに走り、なんとついさっき食べたものをゲーゲー吐き出したのだ。  マサヤは一連の流れに呆気に取られながらも、なにも取り繕わないし、誰の目も気にしないその純朴なわがままさに妙なあこがれを抱いてしまった。痩せて背骨の浮いた背を撫でてやりながら、幻聴や、肉に沈んでいくナイフの感触が遠のいていくのを感じ、マサヤは目を閉じる。

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