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ほぼ毎日、絢音の金で『双星』へ行き、彼女の話を相槌も打たずに聞いている。最初は引け目を感じていたし、やはり裏があるのではと勘繰ることもあったが、三度目の来店でただ単に彼女は病的なまでに寂しいのだと理解し、過食からの嘔吐や精神安定剤でふらついている理由を見いだして納得した。
絢音はいままで何度も男性にだまされ、堕胎したこともあるらしいのだ。その瞬間その瞬間、絢音はこころからまっすぐに、純粋に、真剣に相手を信頼し、身を預けた。けれど、いつしか絢音はひとりぼっちになってしまう。誰も、本気では絢音を愛してはくれなかった。人間性のせいか、こころのせいか、職業のせいか、容姿のせいか。絢音は悩み、やがてそれらすべてひっくるめての〝絢音〟を真剣に取り扱ってくれる者はいないのだと知った。
自分が浅はかだったゆえに、人間のかたちになるまえのいたいけな生命を殺めてしまった。体内をかき回されながら、見殺しにした。産めなかった。育てられなかった。後悔と罪悪感に、もはや絢音はまともではいられない。
彼女の精神は脆弱だったが、それと同じだけ己に厳しかった。見た目にしてもそう、体重の数字にしてもそう。あまりにも厳しく自身を正そうとするから、きっと精神が脆く、虫食いのように穴だらけになってしまうのだろう。その大小さまざまな穴は、それぞれに罪状が付いているに違いない。
『お天道さまは見ているよ』
これが絢音の口癖のひとつだった。罪滅ぼしなどできないと、片時も忘れてはならないと律し続けるための支柱であり、己を呪い続けるまじない。
ふたつめの口癖である『死にたい』を何度も繰り返す彼女は、お気に入りであるミヤマ製の甘いシナモンロールを窒息するほど口に押し込む。
『限界まで食べ、そしてそれを吐き出す瞬間は様々な苦しみから解放される。だけど、解放されたのに、今度は大好きな美味しいものたちを粗末に扱ってしまったことに罪悪感が生まれ、また死にたくなる』
そう告解してさめざめと泣き、自身の薄っぺらい腹を撫でた。
『こんなに死にたいのに、死ねない理由がある。それがつらい。けれど、つらいと思ってしまうそのこころが許せない。生きる理由を手放してしまいたいなんて、見殺しにしたいなんて思うはずないのに』
死ねない理由については、答えてくれなかった。教えてしまうと、その〝理由〟を疎んでいるものとして決定づけてしまう気がするのだろう。マサヤはそう悟り、それ以上問わなかった。
絢音は、マサヤの左手指の異常さに気が付いていたのだが、やはりその理由を質そうとはせず、
「絢音、この色は使わないからあげるね」
と、新品の黒いマニキュアとジャムパンが入れられた紙袋を渡してくれた。
痛みの種類は違えど、絢音とは明らかに目に見えない何かで通じ合っている。
己は生きていてはいけない。この世のなによりもそれを信じ、それだけがこころの芯にある。
恋愛感情のつながりではなく、薄暗い罪のつながり。絢音といるのは居心地がよかった。死にたくなれば絢音を頼り、そして絢音もマサヤを頼った。双子のように、ふたりは互いを補完しあった。
この頃にはマサヤの精神もほぼ安定してきて、日雇いではなく長期的に身をおける働き口をさがそうかという気力すら湧いてきたほどだった。絢音に借りっぱなしの金もまとめて返済したいと考えていたのだが、きっと絢音は受け取ってはくれないだろう。別の形で還元出来る方法がないかと模索していたところ――――。
「マサヤくん、行くところないなら絢音の家においでよ。借り物だけど、一軒家だよ」
と、絢音はアプリコット色のリップを塗りながら軽い口調でのたまった。
断る理由は無い。二つ返事で頷き、手ぶらのまま皆口家へ訪れた。雑用でも飯炊きでも何でもやろうという気概に、自身の精神が、健全に、悪夢とは別離しつつあることを感じた。季節は夏の正午に傾いていた。
――――そしてそこで、絢音が〝死ねない理由〟と称した生き物を視た。
すべてをはね除けようとする分厚い壁をしっかりと隔てた〝子ども〟。
菓子をつまんだ手を上げたまま、上がり込んできた不審者を見上げる胡乱な瞳。どろんとした、闇を湛えたタールの瞳をしていた。
毛羽だった畳の上に転がる背丈に、マサヤはどくんどくんと音を立てて心臓が鳴るのが分かった。とてもよく似ている。拷問の夜、ナイフが深々と沈んでいった麻袋の大きさと。
上滑りする会話のなか、あからさまな警戒を向けられる。しかし、それすら気にならない。暑さとは違う、冷や汗とも脂汗ともとれない体液が額に浮かび、こめかみから滑るのが気持ち悪かった。じっとりとした額を拭うと、絢音にもらったマニキュアを塗った爪が、夜色の下でうずいた。汗の珠が爪の上で引き延ばされると、それは甲虫の背のようにてらてらと照る。
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