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   *   *   *  夕方近くに起きてきた絢音は、庭の草むしりをするマサヤを追い越して『買い物してくるね!』と出て行った。門扉にぶつかりそうなほどの勢いに面食らう。絢音が起きたら一緒に買い出しに行こうと思っていたので、マサヤは当てが外れてしまった。重い物があれば持ってやろうと思っていたのだが。  仕方なく草むしりを切り上げると、手持ち無沙汰にシンクを磨き、ついでにバスタブも磨いた。夏場はシャワーで済ますことが多いとは聞いていたが、実際、磨くところがないほどに風呂場はきれいだった。鹿影町の可燃ゴミの集荷日はいつだろう、と冷蔵庫に張り出された収集表を眺める。フェイクスイーツのマグネットで留められたそれは、可燃ゴミの日に赤丸が付けられていた。  シンヤは自室にしている和室から出てくる気配がない。旧い木造家屋にはプライバシーなど存在しない。襖で部屋同士を仕切る造りをしているので、動きがあれば物音は筒抜けになる。寝ているのだろうか。もしも寝入っているのだとすれば、服の下を検めるチャンスなのでは、と考える自分が怖ろしい。しかし、一度そう考えてしまうと完全に意識を箱の中の猫に囚われてしまう。へばりつく疚しい考えを払拭しようと、手近にあった新聞紙を読むが、目はいくらでも滑った。意識を逸らそうとすればするほど、マサヤの思考はシンヤでいっぱいになる。立ち上がっては座り、立ち上がり一歩踏み出しては頭を振って座り直すということを何度も繰り返した。やがて耐えきれなくなり、シンヤの部屋に足を向けようとしたそのとき、 「ただいまぁー!」  絢音の砂糖菓子めいた声が飛び込んできて、マサヤは胸を撫で下ろしてへたり込んだ。  夕飯を食べているあいだ中、シンヤは黒目を揺らしていたように思う。向かいに座るマサヤが気になって仕方ないのに、目が合うのを極端に恐れている。そういった雰囲気をひしひしと感じた。絢音もその様子には気が付いていたようで、いつも以上に饒舌に語り、そしていつも以上に食べた。驚いたことに、絢音は白桃色の花が咲く生け垣に頭を突っ込んで吐く悪癖があるらしく、縁側からそれを目撃したときは心底驚いてしまった。  生け垣に頭を突っ込んでいる姿は、白いネグリジェが夜闇にぼんやりと浮かんでホラー映画じみている。そしてさらに驚くべきは、シンヤもまた呆けたように絢音が吐く姿を眺めていたことだ。すっかり見慣れた光景のようで、その眼には揺るぎがない。むしろ、吐きまくる絢音の、首から下だけ突き出た胴体を見て安堵の色さえ浮かべていた。  仕事中毒の絢音はすべてを吐ききると、すっきりした様子で出勤していき、あとには男二人だけが残された。立て付けの悪い玄関扉をマサヤは渾身の力を込めて閉める。裏返しに転がった、絢音のピンク色の健康サンダル。かかとの部分によれた白い花がこびり付いていたけれど、皆口家には白い花しか咲かないので、いったいどの花から落ちた花弁なのか検討も付かない。  クツワムシががなり立てる。ふいに、いまこの空間が完全に近隣とは隔たれた小宇宙のように思えた。騒音はすべて夏虫たちがかき消してくれる。近所の家も、隣にあるわけではない。あぜ道をかなり進んだ場所に、グレーテルらが落とすパン屑のように点在しているだけ。確固たる世間との隔絶をしっかりと計算しているマサヤの想像を感じ取ってか、背後で立ちすくむシンヤが身を固くする気配がした。怯えさせないように緩慢に振り向く。シンヤは白いかかとを半歩、後退させる。  はっと気が付いたときには、まっくらい闇をたたえた階段の下で、シンヤの細い身体を組み敷いていた。肩に指が食い込んでいるのは自覚したが、痛ましいと思う反面、力を緩めたら逃げられてしまうかもしれないと本能が煽り立てていた。頭のなかで蠅が湧いている。ぼうふらがちらちらと泳ぐ。  かわいそうに、シンヤは我を忘れて震えていた。痙と紛うほどの震えは、マサヤの罪悪を無言で責め立てる。  別にやましいことをするわけじゃない。なにも傷を付けようというわけではない。  ほんの少し服をめくり、傷跡の有無を確認しておのれの罪に決着を付けたいだけ。 「やめて、やだ、お父さん――――!」 「え…………?」  シンヤの口から出たことばと、そして側頭部。二つの衝撃が一度にマサヤを灼ききった。曼荼羅のような、サイケデリックな火花が頭のなかで咲いて、そして弾ける。  お父さん――――?  ガクガクと震えるシンヤの右手には、大ぶりの懐中電灯が握られていた。ああ、それであんなにも階段は暗かったのか。明かりが付かないから。だから、この幼気な母子はいつも、頼りない懐中電灯の明かりだけを頼りに、真っ暗な階段を昇降しているのだ。 ――――高い天井にある電球に手が届く、大人の男がいない家庭だから。  しかしシンヤの叫びからは、父親に助けを求める響きは感じられなかった。むしろ、いま覆い被さり服に手をかけようとするマサヤを、父親に重ねているような、いやな哀願すら感じられた気がするのだが――――。  呆然としたまま考え込むマサヤのこめかみから、なにかが滴る。それはシンヤの頬を叩いた。 「血……? 血、血、血だ。血、血がでて。出てる。出てるよ」  血、血、となんども繰り返しながらマサヤはシンヤの頬を拭う。拭ったそばから、赤はまた〝子ども〟を穢す。  麻袋を幻視する。幻視のなかで、麻袋の中身はシンヤにすり替わっていた。肺を貫くナイフに、シンヤは花びらみたいなくちびるから赤黒い血液を吐き出す。ナイフはどこまでもちいさな身体に沈み込んでいく。実際、ナイフの刃渡りはそこまで長くはないはず。それなのに、どれほど深く刺し貫こうと、どこまでもずぶずぶと無限に沈み込んでしまう。次第に、ナイフの柄も肉のクレバスに飲み込まれ、マサヤの手までをも飲み込んでいった。生暖かい、ぬるぬるとした裂傷に手首が沈み、肘まで飲み込まれる。どんどん沈んでいく。生暖かくて、鉄臭くて、止まってほしいのに沈下は止まらない。泥濘がマサヤを丸呑みして哄笑する。  こうして自重で罪のなかに沈んでいけば、生から解放されるような気がした。いや、きっとそうに違いない。  いま解放されようとしている。あの〝子ども〟は血液を流して死んだ。いま、自身も赤黒い血を流している。もう一度でもその手を振り下ろしてくれたら、重い電灯で殴りつけてくれたら、それだけで死ねる。きっと死ねる。赦される。このいのちを以て償える。  あの子のために、あの子の手によって。  〝子ども〟は白い手を持ち上げる。緩慢に、たおやかに。  暗転。  シンヤがマサヤの腕を掴んでいた。光に引き上げられる。妄想が晴れる。  ちいさな手が伸ばされ、血に濡れそぼるマサヤの髪を撫でた。焦点を取り戻し、黒い眼と真に合わさる。薄闇のベールを纏うひとみが、憐憫と愛玩のまなざしでマサヤを見上げていた。夢を見るように、うっとりと。  愛すら感じてしまうまなざし。  そう思わせてしまう、魔性のまなざし。  きっとシンヤの瞳はタレントを秘めている。ひとの深淵を無遠慮に引き出して、あれもこれも見境なくかき集めてはシンヤ自身へと収束させてしまう。そういうギフトを天から与えられたに違いない。とはいえ、当の本人にとっては呪い以外の何物でもないだろうけれど。  無垢なひとみは、暴力性を煽る漆黒の光線を遠慮がちに発していた。まるで夜空の運河を渡る星だ。星が一直線にマサヤへと流れ込んでくる。  きっとこの、内面を炙り、欲望のままに喰らいつくす蹂躙を促す視線は、罪を背負うマサヤへ向けられた試練だ。これに耐えれば、マサヤが手にかけてしまった〝子ども〟はきっと還ってくる。  おのれ自身に呪いをかけながらも、地獄のまなざしでマサヤのこころを試すシンヤはもしかしたら聖人なのかもしれない。だって、自分が壊されてしまうかもしれないのに。それなのにヒリヒリしたつらい現在を生きながら後光を放ち、こうして傷口を撫でて暴挙を赦す慈悲と、そして地獄を誘発させ、試練を与える厳しさを持っている。  ああ。  シンヤが健やかに育つように、守ってやらなければならない。そして贖罪をさせてもらわなければ。  この子が健やかであれば、〝あの子〟もまた健やかに生きていける。  だってシンヤは、麻袋の〝あの子〟なのだから。  罪悪も贖罪もあまねくシンヤが受け止めてくれる。〝あの子〟を内包するシンヤは繭だ。いつか孵化したとき、黄金色の鱗粉を星のように散りばめながら、マサヤを現世から連れ出してくれるはずだ。その世界では、罪も痛苦も蟋蟀も鉢植えもユウリも雀荘も繁華街もない。あの夜に繋がる一切合切は存在しない世界になる。そこに行けさえすれば。連れて行ってもらえさえすれば。道しるべだけでも、細い糸だけでもいい。  シンヤは相変わらず光を伴わない瞳で、マサヤの開ききった瞳孔を射貫いている。 「連れて、いこうか」  変声期を経てもなお心地よい中音の声が、たしかにそう言った。  世界が一気に啓けるとき、ひとは黄金色の光りを見るのだと識った。  いま、光のなかで蜘蛛の糸を垂らしてくれているこの子は。  おしゃかさま。

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