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鹿影の厳しい冬を味わいながら、追想を打ち切る。
幽霊を目撃した遅春と同じく、煙草を買って帰宅する。あの頃とは吸っている煙草の銘柄がちがう。そして帰る場所も。
用水路を流れる、しゃらしゃらとした水音だけが皆口家を覆っていた。わずかに白く見える空は、夜にかかった雲なのだろう。低く垂れ込めた雲に街明かりが反射すると、こうして夜空が白く輝くのだそうだ。雲のかからない、黒くはっきりした部分には星が数個だけ瞬いていた。寒椿が夜闇にぼんやりと浮かんでいる。どこか寒々しい景色に呆けながら門扉をくぐると、ちょうど玄関にシンヤがいた。雪に濡れた髪が寒そうで、慌てて駆け寄る。
「シン、何してんの。風邪引くぞ、そんな格好で」
髪に乗った粉雪を手で払い、目を覗き込む。ゆれる瞳は限りなく正気に近い。それがなぜかうれしくて、雪どころか埃ひとつ乗っていない髪をなで続けた。
「……アリッサムの手入れ」
「ありっさむ?」
真冬にでも花を付ける奇特な種だと、ついこのあいだ説明されたばかりだ。ほうほうと頷きながら聞いていたのだが、名前などすっかり忘れていた。しもやけで赤い指が指すほうを見やれば、たしかに小さな花火みたいな白い花がぽつぽつと庭の隅に咲いていた。
凍風に煽られ、雪粒が玄関口にまで入り込んでくる。シンヤの背を押して促して玄関の戸を閉める。マサヤが油を差したおかげで、引き戸はそれなりにスムーズな動きを見せてくれるようになっていた。
シンヤが脱いだ靴を隅に除けようと触ったとき、その靴がぐっしょりと濡れていることに気が付いた。庭は砂地と砂利だ。まるで雪に濡れた草地を踏み歩いたような濡れ方を訝しむも、シンヤは夜の散歩が好きなのでまたこっそり出たのだろうと納得する。こんな寒い夜に出歩いたと知られれば、小言を言われるのがオチだ。苦笑いをして、草にまみれた靴を端に置き、ごみを払う。
「外、寒かったろ。なんか作ってやろーか。食ったらあったまるぞ」
シンヤはなにも言わずに首を振る。相変わらず、思春期の少年の壁は分厚い。どう阿っても、どう扱ってもニコリともしてくれない。それもそうだ。だってシンヤはマサヤの罪悪を査定しているのだから。そうでなければいけない。断罪人は、罪人にこころを預けない。一線を引いた態度こそ、シンヤが罪を受け容れ、量る者であるという証明だ。
マサヤは着ていたボア素材のジップパーカーをシンヤの肩にかけてやった。シンヤはよほど寒かったのか、ふるりと震えながらパーカーの前をかき抱いた。健気な仕草に、ふっと口が緩んだ。
「やっぱ寒かったんじゃん。あったかいもん作ってやるって。うどんで良いか? 具とかなんもねーけど。あ、溶き卵のやつにしてやるよ。かきたま。シンヤ、たまご好きだろ」
夕飯はまだ摂っていないはずだ。今日は絢音の体調――主に精神面が――に難があり、それに伴いシンヤも食いっぱぐれていた。
「でも……ないよ、二人ぶん。麺」
小ぶりの鼻の先が赤っぽい。おずおずと向けられた上目遣いがいじらしく、マサヤは破顔する。
「いーって! どうせ俺、絢音ちゃんを迎えに駅まですぐに行かなきゃだしさ。シンヤ一人ぶん作る予定だから問題なしよ!」
遠慮するなという意味でそう言ったのだが、シンヤはわずかに瞳を揺らしたあと、唇を噛んだ。悔しそう、という感想が真っ先に浮かんだが、悔しがる意味が分からないのできっと勘違いだ。直感を振り払い、まだ遠慮をしているのだなと推測する。
シンヤはほんのわずかに眉根を寄せたまま、唇を噛んだり奥歯を噛み締めたりと落ち着かない。機嫌を損ねている、と瞬時に察してへらりと軽い笑い声を転がす。
「酸辣湯うどんにしてみようか! この間、キューピーの番組でやってたんだよ、お昼に。酢とねぇ、ラー油を入れてね、ちょっととろみ付けて……。あー。とろみってどうやって付けるんだったっけ。小麦粉? シンヤ覚えてる? 一緒に見たじゃん、たしか。ほら、あれだよ、あのー、ほら、テイクアウトの寿司を食べた日のやつよ。コハダが傷んでた、ほら、あの日」
間髪を入れずにことばをつむぎ、有無を言わせぬままシンヤの手を引いて台所へ向かう。冷たい手は、度を超えて冷えていたせいかむしろ熱く感じた。マサヤの手もまた、かじかんでいた。
シンヤはどれくらい、庭にいたのだろう。
もたついた疑問は、うどんを茹でている間に湯気に溶けてしまった。できあがった代物も麺と汁の境目がないようなどろどろとした物体になったけれど、すいとんだと思えばまあ……という感想にどうにか収まってくれたのは奇蹟としか言いようがない。
どろどろとした何かを掬って食べるシンヤの真向かいに座り、ちゃぶ台に頬杖をついて咀嚼を眺める。うらぶれた寒い駅舎で、絢音は待っているはずだ。
『今日はもう憂鬱で憂鬱で動きたくない。こんな日に限って指名が来るなんて終わってる。いつもは営業をかけても知らんぷりするくせに。独りで夜を歩きたくない。終わったら電話をするから、おねがい、迎えにきて。……迎えにきてほしい』
絢音の切羽詰まった、起伏のない声を思い出す。パネライに目を落とす頻度が高まる。高まれば高まるほど、シンヤの咀嚼は緩慢になる。
「悪い、シンヤ。一人にさせちまうけど、そろそろ俺、行かねーとだわ。器はそのままでいいから、先に風呂沸かして入っておいて」
上着はシンヤが肩にかけたままにしているので、マサヤは薄着のまま立ち上がる。ちいさな咀嚼を繰り返す姿に後ろ髪を引かれる思いで横を通り過ぎようとするが、罪悪感に耐えかねてつい振り返ってしまう。
幼子を相手にしているわけでもないのに。むしろ他人がいなくなってシンヤは気楽だろう。そう考えるくせに、暗い家に取り残す罪悪感にこうも襲われてしまうのは、彼が発する『一人にしないで』という哀願を無意識に感じ取っていたせいだろうか。だからこそ、真っ暗闇のなかでアリッサムの手入れをしていたという、身体の芯から冷え切ったあやういシンヤを、信仰とは別の感情であれやこれやと手を尽くそうとした。放っておけなかった。時間と約束に追われる今でさえ。あんがい、テレパシーというものははっきりとこの世に存在しているのかもしれない。
マサヤは局面に立たされていた。放っておけない人間が同時に二人存在した場合、どちらかを選択しなければならないのだ。
黒々としたシンヤのつむじを見つめる。ふと、かすかに俯いている頬のまるみから、水滴がこぼれた。
涙だ。
羽虫が一匹まとわりついている電灯のひかりを浴びて、そのひとしずくは妙に輝いていた。
マサヤはポケットからスマホを取り出し、タップする。一度目のコールで絢音は出てくれた。スマホを手にして待っていてくれているのだと思うと、胸が詰まった。
「あ、絢音ちゃん。連絡が遅くなってごめんな。ちょっとね、うん、そう。シンヤに付いていてやりてーから。うん。うん。大丈夫、食った。ごめんね。うん、ごめん。はい、じゃあ」
通話の途中から、シンヤは音がするほどの勢いで振り返った。涙の痕は見えなかったが、頬のこまやかな産毛がきらきらしている気がした。小さな黒目が、青みがかった白目に囲まれて揺れている。
「絢音ちゃん、タクシーで帰ってくるってさ」
よいしょ、と定位置であるシンヤの真向かいに腰を下ろす。ホープを咥える。大きな木のレンゲを持ったまま、シンヤは目ばかりを見開いていた。
「ひとりで留守番、いやだった? 大丈夫、俺、ここで一緒に待ってるよ」
「……でも、」
一人にさせてしまった絢音への罪悪感と、何をしてくるか分からない怪しい男への不安とがない交ぜになった表情を浮かべている。紫煙をくぐる羽虫が、くゆる煙の流れを湾曲させる。煙の向こうで、シンヤはなにかを噛み締めるように真剣な表情でマサヤを見つめている。
どこか陶酔すら窺える、妙な表情。
絢音を差し置いてシンヤを選びとったことを吟味し、舌の上で転がしているように思えた。マサヤはぎくりとし、短く煙を吐いた。
選び取られたという事実を、シンヤは確かに悦んでいた。
その日からだ。シンヤが頑なだった牙城を取り払い、マサヤに甘く、蠱惑的な眼を向けるようになったのは。
そう、寒い、寒い冬の夜だった。
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