20 / 32

(9)

   *   *   *  鹿影に来て二度目の夏。皆口家にやってきて丸一年が経過。  あたまのなかの麻袋は大人しい。    マサヤに懐き、あとを付いて回るシンヤを絢音は微笑ましく見ていて、精神的にもずいぶんと落ち着いたように見えた。相変わらずアベリアの生け垣に頭を突き入れて吐いているようではあるのだが。とはいえ、この嘔吐が絢音の精神安定を担っているのならば他人がとやかく口を出せる問題では無いのだろう。無理矢理やめさせたところで、別のストレスが彼女にかかってしまうかもしれない。  絢音は一見、からっとした陽気な印象を与える。童顔と痩身のせいでいつまでも少女然としているからかもしれないが、マサヤより年上であってもどこか妹のような親身さを感じてしまう。反対に、シンヤは――――。  シンヤはどこか、夜露に濡れた沈丁花を思わせる色香を漂わせていた。十六歳の男の子には似つかわしくない、恣意的で蠱惑的で、挑戦的なあやうい色気は彼の瞳から、うなじから、腕から、足からよじるようにして放出されている。夜の歓楽街で働くたくさんの男女を見てきたマサヤですら、シンヤほどの逸材はなかなかお目にかかれないと本気で想到している。  おそらく、夜に性を切り売りするのは、絢音よりもシンヤのほうが圧倒的に向いていた。これはもう天賦の才といってもいいほど、シンヤはごく自然に人の視線を、情欲とともに惹き付ける術を会得していた。  シンヤは目を合わせる時、独特な深みを持つ黒い瞳を左右に揺らしてから、掬い上げるようにしてこちらを見上げ、そしてぴたりと視線を合わせてくる。唇を軽く噛んで上目がちに見つめられると、くらりとした酩酊感を無理矢理に引きずり出される感覚がした。もはや催眠術にでもかけられたかと訝しんでしまうほど、シンヤという存在に脳が痺れてしまう。特に白光がまぶしい夏の陽射しの下や、紫がかる夜気のフィルターを突き抜けて降り注ぐ月光の下で、シンヤのもつ白目は特別あやしく輝いた。  蚊帳を張った繭のなかで川の字になって寝た夜に、ネコ科の動物めいた軟体的な動作でマサヤの布団に潜り込んできたことがあった。  一度だけ指を絡めたのちに突き放すような格好になってしまった、すぐあとのこと。  マサヤの体温でぬるく湿った夏布団のなかで、シンヤは人間のすがたのまま蛭になった。生き血をすすることだけを本能に刻まれた蛭みたいに、マサヤの足に絡みついてくる。もはや寝たふりを決め込められないほどに大胆な行動であったが、驚愕と衝撃に金縛りに合ってしまい、拒絶もできない。絢音がこちらに背を向けて、昏々と眠りこんでいることだけが救いであった。でなければ、後ろめたさに発狂しかねない。  シンヤはマサヤのスウェットを両手でずり下げると、飼い慣らされた従順な蛇を弄ぶ手つきで、熱を持たない兆しをあやした。暗闇に慣れない目では、皮膚感覚は鋭敏になるらしい。最初は想定していなかった――――ようでいて、本能ではシンヤの情欲を理解しつつも放置していたような気もする――――淫欲をあからさまに擦り付けられる困惑に萎れていた熱も、布団の中で籠もる熱気と、若くてやわらかいてのひらに浮かぶ汗に撫でられればいやでも反応を見せ始めてしまう。金縛りは全身に甘く帯電し、拡散する。ぬろりとした蛭が熱を飲み込み、黒い愛を知らしめる。  布団の暗がりのなかで、シンヤはいま、何者になっているのだろうか。    蛭になり、淫魔になり、マサヤの罪悪を量る天使になっては懊悩すら吸い尽くそうとしている。  死にゆく大木の気分だった。最後の樹液を啜られ、生命をすべて吸い尽くされていく。  それはそれで、良いのかもしれない。  熱い奔流が根こそぎ飲み込まれ、怠惰な余韻にようやく金縛りは解けた。布団を持ち上げると、もわっとした湿気が解放される。  上気した幼さを残す顔は微笑んでいた。きっと、赤いくちびるから白いしずくが一滴だけ垂れているのは、わざとだ。シンヤはそういう部分を本能で演出できる。瞳を慈愛に細め、萎れた茎を華奢な指先で弄ぶ。  マサヤは思わず天を仰いでしまった。  罪を炙られる。きつく瞼を閉じても、思い浮かぶのはうごめく麻袋のことだけ。  悪魔や天使や菩薩や釈迦が麻袋になんて入っているはずがない。

ともだちにシェアしよう!