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4) 『シン、夜中にひとりでどこかへ行ってるの。絢音がいない夜に。たまたま、帰ってきたときにシンの靴が濡れててね、出かける時はそんなことなかったのに。だから気付いてね、でもね、シンに聞いてもなにも答えてくれない。散歩に出たって言うけど、絢音のお財布からそのたびにお金が少しずつ消えてるの。なにかに使ってるような感じもしないし、悪いことに巻き込まれてるんじゃないかって心配で……』  おととい、絢音はそう言っていた。     『本当はずっと前から気が付いていたよ。はじめは、そう、マサヤくんがうちにやってくる前の冬だった。その頃から少しずつ、夜にふらっと出かけるの。最初はね、気晴らしに散歩に出てるだけかと思ってた。ほら、シンってば中学の頃にひどい目に遭わされてて……そのときも真夜中に出かけたり、考え事に押しつぶされないように一晩中走ったりとかしてたからね、てっきりそういうものだと思ってたの。実際、すぐに帰ってきてたみたいだし。お金だって、食費に好きに使ってねって言ってたから特に気にしなかったんだ』  絢音は絢音なりに、シンヤの懊悩と行き場のない不安を推し量っていたようだ。 『でもね、やっぱり何かおかしいの。友達がいる素振りはぜんぜんないのに、よく電話がかかってくる。シンヤ、すごく怖い声でひそひそ喋っているの。すごい勢いで謝ったり、怯えたようにがくがく頷いたり。それにね、絢音のお客さんがね、高校生くらいの子が変な人たちと埠頭にいたって言ってて。お客さんの言う子の特徴がね、シンヤにそっくりなの。ねえマサヤくん、どう思う?』  変な人たち、という部分がひどく曖昧でどう答えるべきか口ごもってしまう。  頭に浮かぶのは、なぜかあのサディスト男のきれいな顔だった。  まさか東京からこんなところにまで来るとは思えないし、不確定要素が多すぎて自身の知る〝変な連中〟を当て嵌めたところで詮無いとは思いつつも――――。  いやな予感が煙のようにもくもくと広がり、頭の中を燻す感覚に支配される。 『……実はね、シンヤをいじめていた同級生のうちの二人が、死んでたの。冬に。一人はバイクでの交通事故で、もう一人は水難事故だった。鹿影川の底に引っかかってたせいで発見されなかったみたいでね、つい最近、骨の一部が川から引き上げられて発覚したんだって。どっちの子もね、シンヤを執拗にいじめていた子たちなの。ねえ、偶然だよね』  冷や水を浴びせられた気分だった。  冬といえば、造船所の幽霊を見た季節だ。ぼんやりと発光する白い塊。もしかしたらあれはぐねぐねとのたくってはいなかったか。  嫌な想像が止まらない。  黒い服を着た連中が白い袋を担いで、人気のない造船所へと運び込む。袋の中身は、もちろん人間だ。シンヤをいじめていたという子。  シンヤは絢音の財布から抜き取った金を貯め、そして造船所へと向かう。依頼をする。金を払うから復讐をしてほしいと。青みがかる白目が造船所のほこりっぽい闇夜のなかで潤む。左右に揺れる黒目が掬い上げるようにして持ち上がる。魔性の瞳は相手に有無を言わせない。邪視は月光のちからを借りて果てしなく強まる。  邪眼を持ち、マサヤの罪を量り続けるシンヤはもはやサリエルそのものかもしれない。はなから堕ちきっているマサヤは、更に泥濘の奥深くに堕とされる。妄想を振り払う。  どうしてこうも怯える?  マサヤはあのとき、たしかに自身の手で子どもを殺してしまった。その子どもはシンヤではない。誰かもわからないけれど、それだけははっきりしている。  真夜中に布団の中でマサヤの熱を吸う姿を見て、目が覚めた。あれは淫魔の貌をしていた。もはや猫の入った箱を開けなくとも確定している。シンヤがあの夜の子どもであるはずがないのだ。最初からわかっていたことなのに、罪から逃げたい一心で夢を見ていた。  あの夜の罪など、すっかり認めて受け容れている。今更もう、迷わない。逃げない。 『シンね、本当は絢音の子じゃないの。血は、繋がってないの。昔の旦那のね、連れ子だった。まだ五歳でね、かわいくって、天使かと思った。こんな子がわたしの家族になるんだって、我が子になるんだって思ったらうれしくって、幸せだったなあ。旦那のほうはすぐに出て行っちゃったけどね。というより、追い出した。理由は……分かるよね。シンは、あの人に、実の父親に……。でもね、血が繋がってなくても本当に大切に大切に、我が子のように育ててきたんだよ。シンがいてくれたからこそ今まで絢音は生きてこられた。でも――――』  絢音は言い淀んだ。ティントで赤く潤んだ唇を何度も湿らせ、声にならない嗚咽を漏らす。 『本当は絢音、シンが怖い。シン、……〝弟〟を殺しちゃったんじゃないかって、絢音、ずっと、ずっと……』  衝撃で頭を殴られた気がした。一年前、懐中電灯で殴られたあの衝撃をも凌駕する内容に、マサヤは目眩と吐き気に頭がどうにかなりそうだった。 『〝弟〟、ね。うん、シンの弟。絢音が帝王切開で産んだ子。シンと暮らしはじめた翌年に生まれたの。元旦那の子じゃなくて、行きずりの客の子だったよ。はじめて出来た赤ちゃんだから、うれしかったなあ。昌也って名前だった。あはは、そう。昌也。マサヤくんの名前を知ったときは心底震えちゃったよ。ああ、運命だって思った。お天道様が『昌也への罪を贖え』って言っているような気がしてすごく、すごく怖かった。怖かったけど……、マサヤくんのことを放っておけなかったのは、マサヤくんを通して、〝あの子〟に罪滅ぼしが出来るかもしれないって思ったからかな。それにね、シンへの当てつけもあったのかもしれない。〝あの子〟にしたことを忘れないでねって、マサヤくんを使って知らしめたかったのかもしれない。最低。ホント最低。ごめんね、マサヤくん。絢音の自己満足に巻き込んじゃって』  呼吸で喘ぐ。過呼吸になりそうだ。  はじめて名乗ったとき、シンヤはこれ以上ないほどに目を見開いていた。もしかしたら、階段で押し倒した時ではなく、シンヤのこころの表面張力に一滴を落としたのは、自分の名前だったのかもしれない。  そしてマサヤという名の男を連れてきた絢音の真意を、もしかしたら悟ったのかもしれない。  シンヤのこころは粉々に砕け散ったのだろうと想像する。砕け散るなんて表現では到底推し量れないだろう。多感な少年は、まさしくその瞬間、堕ちたのだ。  愛する育ての母も、その母が連れてきた男も、二人ともがおのれの罪をシンヤで勝手に償おうとしていたのだ。 『お留守番をね、任せちゃったの。どうしても出勤しなきゃクビにされるっていう瀬戸際でさ。絢音ももうこの歳だから、今いるお店を追い出されちゃったら雇ってくれるところなんて無いからね。シンヤに昌也を任せて……帰ってきたら、昌也がいなかった。庭にいたの。雨の中、シンヤが庭にいたの。シャベルを持って。昌也は? って聞いたら、花壇を指さして、……ああ、あぁ、し、死んじゃったから、う、埋めたって』  絢音の声は震えきり、不明瞭になる。しばらく嗚咽が続き、落ち着きを取り戻すと何度か嘔吐いた。 『隣の村ではそうするんでしょって。土葬のことだってすぐに判った。絢音の実家、潮見尋にあるから、よく知ってた。法要にシンを連れて行ったこともあった。だから知ってたんだと思う。掘り起こされた昌也の遺体にはね、頭に、れ、裂傷があったって、警察のひとが言ってた。もちろん絢音が疑われたんだけど、仕事のアリバイがあったから。シンは、昌也が転んで階段の段差に頭をぶつけたんだって言ってた。実際、傷跡と段差は合致したんだって。だから事故ってことで片付いて、しまった、んだけど……』  もしかしたら階段の電気が切れ続けているのは、絢音がそこに近付きたくないからなのではないかとマサヤは想像した。 『シン、全然哀しまなかった。まだ感情の整理が付かないから事の重大さに心が追いついていないのかもって思った。だからね、シンのせいじゃないよって絢音が言ったら、シン、そりゃあそうでしょう、って。悪いのは昌也だよって、言ったの。はっきり、言ったの。聞き間違いかと思った。でもね、聞き間違いじゃない。だけどそれは、なんというか、どっちの意味でも捉えられたから。不注意で転んだ昌也が悪いんだって意味でも、自分のテリトリー……うん、〝テリトリーや所有物に入り込んできた昌也が悪いんだよ、だから死んでも仕方ないよね〟って意味でも捉えられたの。考えすぎかもって思われるかもしれないけど、言葉や声って、独特なニュアンスが込められると、聞いている内容はおかしくなくても、こう、聞き触りに違和感が伴うでしょ。正にそんなかんじでに聞こえたの……』  絢音のいうことはよく分かる。  人は言葉に、裏腹なニュアンスや意味を無意識や恣意的にでも込めるとき、声に妙な含みや、表情――――主に瞳に――――不思議な陰りを生じる。きっと絢音は、〝悪いのは昌也〟と言葉にしたとき、シンヤの瞳に黒々ととぐろを巻く闇色の蛇を見たのだろう。 『絢音、自分のおなかで育った昌也も、そうじゃないシンも、二人とも自分の息子だって思ってた。贔屓なんてしなかった。……つもりだけど、絶対にそうかって聞かれたら、じ、自信ないよ。わかんない。してないつもりだなんて言っても、シンはどう思ってたかなんてわかんない。わかんないよ。シン、なにも言わないけど、でも。でも、でもさぁ、シンの目がいつも絢音に突き刺さってた。あれは、非難してた。シンの目を見てると、ざわざわするの。罪悪感が次から次へと湧き上がってくるの。死にたくなってくるの!』  最後のほうは、懺悔と言うよりも悲鳴に近かった。思わず耳を塞ぎたくなるほど、絢音の声からは耐えがたい恐怖心が込められていた。    おそらく、シンヤはこの家も、絢音も、自分の所有物だと信じていた。だからこそ、絢音の愛情を独り占めしはじめた昌也という存在を疎ましく感じた。  それと同時に、絢音を母として愛するあまり、同時に昌也にこころを移しつつあることを許せなくなっていた。  ――――突飛な発想だとは分かっている。だけど、シンヤならばあり得るかもしれないとどこかで納得してしまう自分がいるのだ。  冬の日、絢音の迎えよりもシンヤを優先したとき、はっきりとシンヤは悦んでいた。  あの暗い悦び。あの黒蛇が渦巻く瞳。  悪寒が何度でも背筋を舐め上げる。    *   *   *  夏が尽きて、秋つ方。  事件が起きたのは九月のことだった。    *   *   *

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