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【心呪】

【心呪】 (1)    日課の水やりを済ませると、シンヤは鼻歌を歌いながら庭中の蟻を踏み潰して回る。  沙羅樹の葉陰に、白く繊細な簾が形成されていて、ふしぎに思いつややかな葉をかきわけて覗き込んだ。すっと伸びた白線の先に、小さな楕円。葉の裏にびっしりと生えたそれは、草蜻蛉の卵だった。法華経に記された、三千年に一度だけ咲くという伝説の花――――優曇華(うどんげ)。草蜻蛉の卵は優曇華とも称され、同時に吉兆とも信じられている。  なにかいいことがあるかもしれない。迷信だとしても、すこしだけうれしくなる。  元々植物が好きだったわけではないのだが、庭木や、花壇に植えた可憐な花の世話をし始めたらだんだんと楽しくなってきた。前住人は白い花で庭を統一するのが好きだったようで、冬に一時的に姿を消していた宿根草たちも春がくれば新たな生命を芽吹かせてくれる。お小遣いから捻出して、シンヤもホームセンターで見つけた小花などを植えたりしているのだが、毎日甲斐甲斐しく与える〝肥料〟のおかげか、今のところは順調に育っている。今日も、丹念に小石ですりつぶした鈴虫を花壇に植え込む。死した生命を土に与えると、植物はめきめきと育っていく。だからきっと、隣町の果樹はあんなにも実を付け、潮風と太陽に育まれたうつくしい果実を実らせている。 『お天道様が見ているよ』  絢音の声が、アベリアの生け垣から聞こえた気がした。    *   *   *      マサヤはここのところ、沈んだ表情を浮かべては日がな一日ぼうっとしている。  時折目が合うと、怯えたように瞳を揺らす。シンヤがハーフパンツから伸びた足を見せつけるように組み替えたとしても、まったく気にする素振りすら見せずにぼんやりするばかりだ。  それならばと、二人だけの夕飯時に、熱く煮えたぎる味噌汁をわざと零したことがあった。ぐらぐらと沸騰した味噌汁は、椀によそうともわもわとした対流が形成された。  シンヤは無表情のまま、それをふとももに垂らした。腕を傾けつつも瞳はまっすぐ、マサヤを見据えていた。 「何してんだ!」  わずかな間のあと、マサヤは勢いよく立ち上がってシンヤの手を引き、風呂場へと向かった。ふとももに張り付いていたくたくたの長ネギが廊下に落ちる。あれもまた埋葬しなければならない。早足に足をもつれさせながら、後ろ髪を引かれる思いも廊下へと置き去りにした。  風呂場にシンヤを押し込むと、マサヤはカランを回して冷水のシャワーを赤く火照ったふとももに当てた。残暑に温められた水はぬるかったけれど、次第に冷たくなり、ふとももの発熱を洗い流していく。ピリピリとした痛みが靄のように広がっていく。  風呂釜のふちに座らせたシンヤを見上げるかたちで、マサヤはしゃがみこんでいる。 「どうしたんだよ、急に。びっくりすんだろ。とりあえず軟膏を持ってくるから。それまで水、当ててろよな」  立ち上がろうとするマサヤの服の裾をしっかりと握った。黒目を揺らし、掬い上げるように見上げる。 「……やだ」  マサヤはぎくりと動きを止め、はっきりとした喉仏の隆起を上下させた。シンヤはとっくに、自分の眼が他人の欲を射貫いて炙ることに気が付いていた。 「やだ、って……。言われても」  ふいと逸らされる顔は戸惑いに曇っている。濡れたかかとが半歩下がり、出口へと向かう。指からするりと裾が解放される。 「三十秒」  手をひとつ鳴らすと、マサヤははっと顔を上げてばたばたと駆けていった。  愉悦に口角が持ち上がる。この従順な姿は、シンヤをこころの底から癒やしてくれる。  三十秒を待たずして、マサヤは飛んで帰ってきた。遅れたとしても罰を与えるわけではないし、そもそも三十秒で帰ってこいなど一言も告げていない。それなのに、秒数を告げただけでこうも慌てて駆けてくるなんて。 「いいこ」  救急箱を取り落として肩で息を吐くマサヤの、左手の甲を撫でた。黒い爪で装飾された手がびくりと痙攣する。  組んだ足を解く。痛々しく発熱し、赤く色付いたふとももを差し出すと、マサヤは服が濡れることも厭わずにすとんと膝を着いた。つま先で膝を小突くと、マサヤは震える手で救急箱を開けて古めかしい軟膏を手に取った。人差し指にたっぷりと一掬いすると、黒い爪に半透明のベールがかかって美しかった。  ぬるつく指が、ふとももを撫でる。 「ん……」  性感を煽るくすぐったさに息を詰めると、マサヤの瞳が大きく揺れた。止まった指がしばらく肌の上で休憩を取る。動きは再開され、軟膏が薄く伸ばされていく。天井の結露がたわみ、マサヤの肩の上に落ちた。 「マサヤくん、いいこだね」  グリースでセットされていない、猫っ毛の頭を撫でる。切れ長の目がくしゃりと歪み、きれいに整えられた眉がきつく寄せられた。 「いいこ、いいこ」  幼子を撫でるように、髪を梳いて頬にてのひらを宛がう。  大人の男の頬。すこしざらつく、乾燥気味の肌。  シンヤが慈愛に微笑むと、マサヤはひしゃげた瞳をきつく閉じて苦しげに呻いた。その表情が愛おしくて、薄い唇を舐めた。わずかなニコチンの味が、シンヤの舌の上で糖蜜のように染みこんでいく。  ふわふわとした幸せの味がシンヤの背筋を駆け上り、ぶるりと打ち震えた。  こんなにもしあわせを味わえるなんて、優曇華の迷信はやはり間違っていなかった!  気を良くしたシンヤが、マサヤの秘匿であろう黒く塗り込められた爪に口づけを落とそうとしたとき、玄関の引き戸が開けられる音がした。  邪魔が入った。  舌打ちをするとマサヤが弾かれたように顔を上げる。その正気を取り戻す瞬間のあわれな瞳も愛おしいので不問とする。  

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