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(2)  司法解剖の結果、絢音の死因は溺死だった。生体反応から、おそらくはダム横の吊り橋から飛び降り、岩に頭を打ち付けたのちに溺れたということが判明した。なお、橋の上には絢音のサンダルが揃えられた状態で置かれていたという。  発見場所の鹿影川は比較的大きな川だが流れが穏やかで浅く、絢音の遺体は下流まで流れることなく岩場に引っかかっていたらしい。川に投げ込まれてから発見までが早かったようで、遺体は溺死体に見られるような膨張や腐敗はほとんど見られなかった。それでも変わり果てた姿には違いない。唯一の救いは、彼女の表情が穏やかで、一見すれば微笑みを浮かべているかのように見えることか。  けれど、青白い貌と岩にぶつかって出来たと見られる、額のなまなましい裂傷はマサヤの脳裏にこびりつき、寝ても覚めても頭から離れてくれない。  吊り橋は、絢音がはしゃいでいたあの場所だ。たくさんの写真を撮ったのに、決して自分が映り込むことはしなかった。まるで自ら思い出の中への介入を避けるかのような徹底さで、絢音は切り取った思い出の外側で微笑えみ続けていた。  身元確認から司法解剖の結果が分かるまで数日の開きがあったのだが、マサヤはその間、入念な取り調べが行われた。状況からも自殺の線が濃厚だという見方で捜査は進められていたのだが、いかんせん額の外傷が捜査への決着に待ったをかけたようだ。  つまり、絢音が他殺であるという可能性。  ゆえに、婚姻関係もなく、交際しているわけでもないマサヤが事件への関与を疑われ、そして睨まれるのは当然のことで、東京にいた頃に反グレグループにいたこともあっという間に調べ上げられてしまった。とはいえ、絢音の死亡推定時刻である早朝に、コンビニで買い物をしている姿が監視カメラにしっかりと映っていたため、それほどの時間をかけずとも、絢音の事件に関しては完全に潔白だということが証明された。加えて、疑念が解かれた決め手のひとつに、コンビニだけではなく街中の設置された防犯カメラの存在もある。不自然な行動を取るわけでもなく一定のテンポで走る姿が記録されていたのはマサヤにとって僥倖だった。距離、速度、映像に記録された時刻。そのすべてに於いてカメラの死角外で犯行をやり遂げ、死体を遺棄してランニングコースへと戻ることは不可能だと立証されたのだ。これは偶然ではなく、ここ最近は早朝の決まった時間にコンビニへと行く癖が付いていたことによる必然のルーティーンの賜である。  というのも、毎朝シンヤが決まった時間にランニングへと行くようになったので、マサヤも伴走する羽目になったのだ。最初はいやいやながらついて行っていたのだが、これが案外たのしい。習慣になると早起きも苦にならなくなり生活サイクルも徐々に整ってきていた。しかも信じられないことに禁煙にまで繋がったのだから、正にシンヤ様々と言えよう。  朝五時にランニングを開始して、決まったコースを走り、六時にはコンビニでスポーツドリンクを二本買って、だんだんと光を帯びていく海を見ながら帰宅するという習慣がマサヤの無実を証明してくれた。もしもこの日にコンビニに寄らなければ、惰眠をむさぼっていれば、マサヤのアリバイは成立しなかっただろう。  ――――マサヤのアリバイは。  疑いが晴れた安堵とは裏腹に、マサヤの胸には日に日に黒い染みが広がっていた。  絢音が身を投げた日の朝、マサヤははじめて一人で走りにでかけたのだ。 『なんかちょっと、風邪っぽいかも。明日の朝は走るのやめとくね。マサヤくん、走った帰りにスポドリ買ってきてほしい……かも』  控えめな調子でシンヤがそう言ったのは、絢音が命を絶つ前日の夜だ。  シンヤのその言葉があったからこそ、マサヤは確実にランニングへと出かけ、決められたようにコンビニに寄った。そして然るべきアリバイを手に入れることに成功したのだ。  しかし、シンヤは本当に風邪を引いていたのだろうか。  なおかつ、本当に家にいたのだろうか。  出かける前、起こさないようにとわざわざ彼の部屋の襖を開けて声をかけるなんてことはしなかった。家にいるシンヤの姿を確認してはいないのだ。  絢音が帰ってきていないことは玄関に立ったときに気が付いたのだが、オールで働いたあとに客と朝ご飯を食べて帰ることもあったので別段気にもしていなかった。  もしかしたらシンヤは、絢音が死に、そしてマサヤが疑われることを知っていたのではないのか?  だからこそ、時間をかけてマサヤの生活習慣を変え、ランニングコースをじっくりと身体に仕込んだ。アリバイを作るために。  でなければ、どう考えてもおかしい。わざわざ防犯カメラが設置してある道を選び抜いたランニングコースなんて、いくらなんでも恣意的すぎる。  マサヤが無実の罪を被ることを事前に知っていて、それに備えて潔白が成立するようなルーティーンを作ったのはなぜか。  それはもう、はなから絢音が死ぬ日や時間帯を知っていたことに他ならない。  どうしてそんなことを知り得たのか。  導き出される答えはひとつしかない。  久しぶりに煙草が吸いたくなって胸ポケットを探るが、もちろん愛飲していたホープはない。舌打ちをして、貧乏揺すりをする。家中を歩き回る。  落ち着きなくうろうろとするマサヤを、鮮烈な光が差し込む庭からシンヤが見つめている。

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