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第11話 アクリルケースとレジン

『おう、起きてたか? 休み? いや休みのこんな時間に悪いんだが、今日署の方へ来てもらえないか? 現場のある山間部から県道の方へ降りて市街地へ向かう通りの反対側に防犯カメラがあるんだが、それに映っていた車で不審な点があるものが一台見つかったんだ』  永心から電話があったのは朝五時。もう本当に警察ってやつは民間人の生活を思いやれない奴ばっかりなのか、それとも永心の頭が特におかしいのか……。ここ最近は深夜や早朝にも関わらず、遠慮なく呼び出されるのが当たり前になりつつある。  俺と蒼は昨日かなり長い時間抱き合っていたから、眠ったのはその電話を受ける二時間くらい前だった。本来なら今日は俺は休みになるはずだったからそうしたんだが、全く嬉しく無いラブコールを受けてしまった。    出勤すると蒼に言った時も、田崎に連絡を入れた時も止められた。それでも、俺が警察への協力を惜しむと、会社の心象が悪くなるかもしれないから、やれるだけのことはやっておかないといけない。 『でもお前、こんなのが続いたらすぐにゾーンアウトするだろ。しばらく現場には行くなよ。打ち合わせや会議なら受けてもいいけれど。それは会社から警察へ正式に連絡しておくから。いくら幼馴染のお偉いさんのご子息でも、うちの代表を潰すようなことをされると、俺たち路頭に迷うかもしれないんだからな』 「わかった、頼んだぞ」と言いながら通話を終了した。確かに、今ほど何も情報が掴めない事態が続いていると、精神力はどんどん削られる。そうなると、ガイディングしてもらっても残るわずかなダメージが蓄積される。それが積み重なるとゾーンアウトしやすくなってしまう。  普段の俺は、精神鍛錬になることは科学的にも精神論的にも実践してあって、疲労が溜まっていても蒼にケアしてもらいさえすれば、翌日まで持ち越すことすら少ない。  それなのに、この現場はそこにいるだけで異常な疲れを感じる。肌感覚で感じる異常性があるのだが、厄介なことにこれを言葉で説明するのが難しい。  これは俺の経験が不足しているのだろうと思う。説明するだけの経験を持っていない。  難解な案件なのだが、なぜだか俺はこの件は早期に解決しなくてはならないと焦っていた。  警察から迎えの車が来て、身支度は整えたけれど頭が半分寝ぼけたような状態で、外へ向かおうとしていた。ソファーを立ち上がったタイミングで蒼が起きてきた。眉根を寄せながら首を傾げている。口元に手を当てて、何か言いたいことを我慢しているようだった。 「心配か?」  俺は蒼に近づいて行って、頬にそっと手を添えて優しく摩った。蒼はぎゅっと唇を結び、やや上目遣いに俺を睨んでいた。 「そりゃするだろ、心配。俺、今日はお前のそばにいてあげられないんだから。しかもあの現場に行き始めてから、なんかめちゃくちゃ疲れて帰ってくるじゃないか。ゾーンアウトしないかどうかヒヤヒヤしてないといけないんだぞ」  俺は蒼のその言葉を聞いて、ふっと微笑んだ。蒼の口から、俺のことを愛しているんだなあと実感できる言葉を聞くと、いつも微笑んでしまう。触れ合っている手のひらと頬を伝って、俺のその気持ちが蒼へと流れ込む。蒼の顔が少し赤らんで、伝わったのがわかる。俺はその瞬間が結構好きだ。 「今のでもちょっとチャージ出来た。帰ってきたらまたお願いな」  蒼の首に手を回して、軽くぶら下りながら俺の大好きな顔を見上げた。「な?」と甘えたように繰り返す俺に、蒼は諦めたようにふうとため息を吐くと、柔らかい笑顔と共に昨日と同じ言葉をくれた。 「もちろん。何度でも」  俺はその言葉と深くて甘いキスを受け取って、軽やかに部屋を後にした。 ◇◇◇◇◇ 「おはようございます。朝早くからすみません。そんなに急ぐ必要はないだろうとは言ったんですが……あいつなりに何か急がないといけない感じがするらしくて。俺はもうそういう勘は働かないので、仕方なく指示通りに動くことにしました」  迎えの車を運転していたのは、永心の先輩で刑事の野本慎弥《ノモトシンヤ》。元々は捜査一課にいたらしいのだけれど、今はセンチネルとの交渉窓口をやっている。  野本は、捜査中に被害者であるセンチネルに触れた際に覚醒した後天性のガイドで、その能力を必要な時に使えるようにと現場を退いた変わり者だ。  しかもこの男、上層部には報告してあるのだが、隠れてウチの会社のガイドとして活動している。必要経費しか貰わないボランティア扱いなのだが、素性を隠していたいということで、このことを知っている人間は限られている。 「野本こそ、悪いな。俺の迎えは別にお前じゃなくても良かったのに。交渉窓口だって暇じゃないだろ? あ、昨日はガイドとして派遣されて無かったか?」 「まあ、昨日はほんと、キスハグ程度だったので、大丈夫です。すぐ帰りましたし」  そう言って運転に戻った野本の首筋が赤くなった。確かに昨日の報告は、軽度なケアになっていた。それでもそれだけ赤くなるこの男が、会社に所属してガイドをしているなんてどう言った理由があるんだろうかと聞き出したくなってしまう。  それでもそこは本人が隠したいことであれば、敢えて聞くことは無い。登録の際にも、その手の話を隠そうとしていたら聞くことはない。俺が相手を見て、犯罪の匂いやその片鱗が無いかどうかを見抜けばいいだけだからだ。 「なあ、今回の事件でどうしても気になることが二つあるんだ。一つは、現場に漂う違和感。もう一つは、永心の執着の仕方だ。お前、どっちかわかることある?」  運転しているから前を向いたままだが、野本の肩がぴくりと動いて動揺したのが見えた。脈がやや早くなった、血圧が上がっている、体温も上昇、明らかに何かを隠そうとしている。  野本はガイドだ。そして日々センチネルと交渉している。俺に隠し事ができないことはわかっているはずだ。二つのうち、一つは確実に答えてくれるだろう。  大通りに出ても、早朝のためか車通りはいつもより少ない。空気の匂いもいつもより潤っていて青い。これから陽が昇るにつれ、人間の活動量が増し、匂いは排気に満ちて質感はガサガサになるだろう。  人の営みは人以外には悪影響しか与えていないということを、誰よりも実感するのはセンチネルだ。そこで何も感じないか、申し訳なく感じるのかで現れる違いは、バースではなく人間性によるものになる。  実際大掛かりな犯罪の黒幕がセンチネルだったということはここ最近とても多い。センチネルは犯罪に巻き込まれ被害者になることも多いが、犯罪を企てる加害者になりうることもあるというのは、忘れてはいけないのだと常に心がけている。  しばらく黙っていた野本が、ふっと短く息を吐いてバックミラーで俺をチラリと覗いた。目つきが変わった。脈拍も鼓動も体温もやや下がりつつある。話す気になったようだ。 「現場の違和感については、俺は何もわかりません。が、永心についてなら……」  俺はシートベルトをぐいっと引き伸ばして、助手席のシートに抱きついた。野本は俺の顔が近くにあることに気がつくとギョッとしていたが、そのまま前を見て話し続けた。 「永心がこの件に執着を見せるのは、何かしらの匂いを嗅ぎ取っているからだと思います」 「匂い? それは刑事の勘みたいなやつのことか?」  俺はシートに抱きついたまま、野本の方へ首を伸ばした。野本は前を見据えたまま、赤信号で車を停めた。話すのを酷くためらっているようだったので、俺はその意図を読み取ることにした。  ここ最近の永心の動きを思い出す。どういう時にどういう反応をしていたか。どこに居て、何を触っていたか、何を嗅いでいたか、何を見ていたか、何に耳をそば立てていたか、何を……  そこで、ふと思いついた。ただ、あまりに予想外だったので少し自信が無かった。どうしようかと悩んでいると、青信号で車が走り始めた。そこから先の信号が全て青、青、青、青……なんとなく勝手に、これは行けというサインだと思おうと思った。 「野本、もしかして……永心はレイタントなのか?」  俺のその問いに、野本はビクッと弾けたように動いた。そして、ソロソロと視線を俺の方へ向けた。その目がやや怯えているのがわかった。センチネルに隠し事は難しい。それは人間関係を悪くする。だから普段はその力を解放しないようにしている。  野本は、俺が何も説明されていないのに、体から発する信号のみで相手の思考を見抜くというのを初めて経験したからだろう、しばらく唇が震えていた。 「ごめんな、でも俺は普段こんなことはしないから。人の秘密を知って喜ぶほど幼稚じゃない。これから先もそれは約束する」  そう言って、野本の肩にポンと手を乗せた。そうすれば、ガイドにはどんな言葉で説明するよりも伝わる。俺の気持ちが手から肩に流れていくのを感じた野本は、ほっと安心したような顔をしていた。 「すみません、ロックさんがそんな方だとは思ってないんですけど、やはりセンチネルの方と話す時は少し身構えてしまって……」  野本は以前、被害者だと思われていたセンチネルから、思考を読み抜かれて加害者側に情報が流れてしまったという経験をしている。それは防ぎようの無いことだったため、お咎めはなしだったのだが、本人が自分を許せずに異動を願い出た。そして、今の担当部署であるセンチネルとの交渉に関わる位置にそのまま居座っている。 「いや、気にするな。ただ、この件は少しでも進めないと良く無い気がしてるから、遠慮なくいくぞ。で、永心はレイタントなんだよな? あいつの目覚めそうな能力が、現場で何かを感じ取っている。だから俺は、何も無い現場に何度も足を運ばされてるんだろう?」  野本は「そうです」と小さく呟いた。 「永心自身は気がついてそうだったか?」 「いえ、おそらく無自覚だと思います。永心はミュートでいたいと思っていますし」 「……そうだな。あの立場にいたらそう思って当然だ」  永心がどういう家の生まれなのかを知っていれば、自分がセンチネルでいたいと思うことは無いだろうというのは想像に難くない。  あいつの親は、政治家だ。悪名高いタイプの政治家だから、センチネルをたくさん囲って政権を握っているという噂をされている。本人はミュートなので、センチネルのケアもせずに使うだけ使ったら捨てるとも言われている。  親がそんな噂を立てられていて、自分がセンチネルだったら……そんな恐ろしいことを考えたことは一度や二度じゃ無いはずだ。大人になってバースが確定してかなり安心していたのを覚えている。 「ミュートで喜んでたのに、実はレイタントだったなんてな。覚醒したら力が暴走する可能性高いだろ」  もしかしたら、俺も野本も、そうなりそうなことが予測できているから、焦っていたのかもしれない。それは能力というよりは、友人としての勘だった。 「野本、お前、もし永心が覚醒したら……」  そう話していると、ちょうど署についた。野本はフットブレーキを踏んで、くるっと俺の方を向き直ると、まっすぐ俺の目を見て言った。 「俺が守ります。あいつが許すなら、ボンディングもします。一生、そばにいます」  さっきあんなにセンチネルに怯えていた男とは思えないほどの、まっすぐで綺麗な目だった。その覚悟の強さと愛の深さが身体中から漏れ出ていた。  俺はそれを察知して、ブハハハっと笑い声をあげてしまった。 「お前、それは俺に一番に言うことじゃ無いだろ。忘れておいてやるよ」  野本は一瞬意味がわからなかったようだったが、俺が肩にポンと手を乗せると理解したようで、ビクッと体を硬直させて真っ赤になっていた。

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