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第14話 アクリルケースとレジン 4

「あ、で、でも、あれじゃね、準備って仕方とか知ってんのか?」  俺が鉄平の目をじっと見上げて強請ったら、今度は鉄平が日和始めた。もう俺はスル覚悟はしたから、なんでも来い! って気になっていたのに。妙に怖気付いている鉄平に少しイラッとした。 「センチネルって分かってからは、ゾーンアウトしないようにするためにいつでもケアを受ける準備をしておくように言われるんだよ。だから準備は最初に習った……ついでに言うと、その……流れは一通り教えてもらったって事は一応言っておくよ」  こともな気に言い切った俺を見て、鉄平が目の色を変えた。 ぎゅっと唇を結んで俺をじっとみていたかと思うと、ふいっと目を逸らして少し剥れたような顔をした。 「? なんだよ、なんか怒った?」 「だって、お前……それってさ、つまり」  そこまで言ってまた口を噤む。今度は、多少怒りの色が濃くなったような目つきをしていた。 「なんだよ! 今さら言いにくいことなんて無いだろ!?」  痺れを切らした俺は、鉄平のTシャツの襟元を手で掴むと、ぐいっと引き寄せた。鼻先が擦れ合う距離になるまで近づけてみた。  そこで止まってじっと鉄平の目を見つめた。  さっき果貫さんが言ったように、ケアはキスで足りていた。それ以上、スル必要は無い。 でも、やっと両思いって分かって、こんな状況で、したいって思えないのって、俺は悲しい。だから、こうやってお互いの匂いがわかるほど近くに居たくなったんだ。俺は、鉄平の匂いだけで欲情するくらいには鉄平が好きだから。ガイドなら、|共感《エンパス》するだろうから……  思った通り、鉄平の顔はだんだん赤くなっていった。俺の気持ちを拾い上げて、共感してる。そして、それを俺に返してくる。俺の肌感覚が、視覚が、聴覚が、嗅覚が、この男は俺に興奮してるって教えてくれる。 ——良かった。ちゃんと好かれてる。  俺のその心の声が聞こえたらしく、鉄平はぎゅっと眉根を寄せて胸の辺りを押さえていた。  それでも、鉄平はまだ何かに躊躇して迷っていた。思われているはずなのに、まるで行動しようとしない鉄平の事が理解出来なくて歯痒かった。もちろん、俺から仕掛けてもいいんだけど、鉄平が何を気にしているのかわからないままなのは嫌だった。だから|共感《エンパス》に訴えたのに……それでも頑なに言おうとしない。  俺はムッとして、鉄平を突き飛ばした。 「痛って! 何すんだよ……引っ張ったり押したりすんなよ、お前ー!」 「お前が期待させて突き放したりするからだろ! スル気が無いなら、ほ、ほっとけば良かっただろ……」  言いながら涙が出てきた。言葉にしたら、すごくすごく痛くて、キツかった。  好きなくせにしたく無いとか、俺には理解できない。理解したとしても、これから鉄平に頼ることが出来なくなるって思うことが、単純に辛かった。困ったら一番に頼りたいのは鉄平なのに。他の人じゃ、嫌なのに……。  果貫さんは、多分最初の打ち合わせの時から、俺に好きな人がいるのは分かってたんだ。そして、今日それが鉄平だって気が付いて、俺に何か刺激を与えて帰ってしまった。鉄平に嫉妬させて、うまくいくようにしてくれたんだろう。そこまでしてもらってて、うまく行かないなんて、俺はどれほど情けないんだろうかと悲しくなった。  突き飛ばされて仰向けにひっくり返っていた鉄平は、いきなり泣き始めた俺を見て狼狽えていた。昆虫みたいにガサガサと高速でヘッドボードの方まで這ってきて、俺の前に座った。 「な、なんで泣くんだよ……今泣くような事したか、俺」 「だって、お前、嫌なんだろ……俺とスルの。実物目の前にしたら、やっぱり嫌だったんだろ?」 「はあ!? いや、そんなこと一言も言ってねえし、むしろ今のは……」  鉄平の顔が涙で歪んでよく見え無くなってきた。何か言ってる。でもその声もよく聞き取れない。悲しくなるとこんな風になるんだなって初めて知った。  俺は一人っ子で、親は俺のことを溺愛している。二人とも常に俺を寂しがらせないようにしてくれていた。多分、これが生まれて初めての寂し泣きだ。こんなに気持ちがぐちゃぐちゃになるんだなと、少し驚いてしまうくらいだった。  段々、見えるものが変わってきた。  天井もぐにゃぐにゃになって、その模様が気持ち悪く見えるようになって来た。 ——あ、まずい、本当に気持ち悪いかもしれない。  ちょっと頭がぐらぐらしてきたかも……そう思っていると、突然どこからともなく、人の話し声が聞こえてきた。 『……店にまで押しかけてきたんだから、話すしか無いだろ? 接客業なのに店で揉めるわけにも行かねーし……』 ——男の怒った声が聞こえる。  でもこれは、父さんじゃないな。声も違うし、なんていうか……口が悪い。  どこか他の家の中の話かな。  どこの家の声だろう。  そうか、今聴力が異常に敏感になってるんだ……  止めなきゃ、止めなきゃ俺は死ぬんだ……  どうするんだった? どうしたらいいんだった? 『ガガガガー!!!……へぃ……ガガガ!!!……しょ……い』  ピンクノイズと男の声が聞こえる。なんだかアナログでラジオを聴いているみたいだ。  よく父さんに聞かせてもらったなあ。  ホワイトノイズは聞いてられるけど、ピンクノイズってずっと聞いてるとなんかモゾモゾ落ち着かなくなるんだよなぁ……  なんて、昔のことを思い出していたら、フッと一瞬意識が飛んだ。  その瞬間、ビリビリっと肌に電気が走って、ハッと我に返った。  そしてまた、情報流入によるショートを起こす……  俺は今、生まれて初めての喪失感にコントロールを失い、死にかけている。  シールドに穴が空いて、全ての感覚にブレーキが効かなくなりそうになっていた。  この状態が続くと、情報処理が追いつかなくなった脳が暴走し始める。  つまり、気が狂って死ぬ。  止められるのはガイドだけ。  それなのに、俺の頼りたいガイドは、俺に触りたがらなかった。  その孤独が、さらにコントロールを奪っていく。   『天井、オフホワイト、色相39%、彩度7%、明度100%の薄い橙色。  距離は約2m、壁紙はエンボス加工あり。  壁面には吸音材としてウレタンスポンジとフェルトを組み合わせたハニカムパターンの製品が貼り付けてある。  そのフェルトの色はライトグレー、ライトイエロー、色相は…』  耳の次は目が、情報を細かく次々と伝えてくる。  多分、鼻はもう情報過多で何を感じているのかもわからなくなってきている。  肌も、ベットのシーツの素材が肌に触れるたびに、痛みとひりつきに襲われる。  口の中に空気が入るたびに、空気の、窒素の味がする。  窒素の味って、普通わからないらしい……  ベッドに座ってるだけで五感に情報の流入が止まらない。普段は意識もしない空気の重みすら肌に感じるようになる。 「うるさ……やめ……て……もういらない……」  叫びたいけど、叫ぶと自分の耳が壊れる。せめてイヤーマフを……と、必死に手を伸ばした。  指先がイヤーマフに触れた。でも掴みきれずに床に落としてしまった。  落ちた途端、爆弾が爆発したような破裂音が耳に飛び込んできて、俺は思わず絶叫してしまった。 「うっ……わああああー!!!!!」  そして、その自分の声のあまりの破壊力に、完全に意識を飛ばしてしまった。  落ちる寸前にドアが開いて、果貫さんが走ってくるのが見えた。  センチネルの宿命なんだ。  ガイドがいないと死んでしまう。  父さんや母さんのためにも、まだ死ぬわけにはいかないから。    鉄平以外の人のケアを受け入れよう。  そうするしか道はないんだと、決心した。

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