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第26話 卯一郎
翠のバイオリンの音色は、独特だった。どう独特なのかと言われると、言葉に詰まるところがあるが、一言で表すなら「素直」と言うことだろうか。
自分の内面を隠しもせずに音色に乗せる素直さ。人間ならば少なからず見栄を張りたくなり、飾ってしまう部分まで赤裸々に音に乗せてくるのが翠のバイオリンだった。初めて聞いた時の音に、聞き惚れ魅了されてしまったのは、俺の持っていない音を思っているからだ。俺のチェロは飾りに飾ったゴテゴテとした醜悪な音に近い。それを祖母に指摘され
俺は顔から火を噴く思いだった。今思い出してもズキズキと心が痛む。
翠はバイオリンで本音を吐いていた。食料を買い込んでロッジに戻った時に聴いた翠のバイオリンは寂しさを訴えていた。しかし、それはそういう曲であってこそ生きるものだろう。楽しい気持ちを表現した曲では作曲者の意図を無視し過ぎだ。翠自身、恐らくその事に気が付いていないのだろう。しかも、あの胸を刺すような寂寥感は・・・あまりにも悲痛で聴く者は耳を塞ぎたくなるのではなかろうか・・・。
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「あははは! 卯一郎さん、もう一回、やりましょう?」
「ああ、いいぞ」
悲痛な音色から優しく気分の良いユモレスクを翠のバイオリンから聴いた時には、内心胸を撫で下ろした。それと同時に、自分のチェロの音の醜悪さに気が付き嫌悪感が沸き始める。正直いって、テクニックは稚拙な翠のバイオリンだが素直に音楽への愛情を感じる。それに比べて俺の音は何だ? 俺は一体何の為にチェロを弾いている? 俺のチェロはテクニックで誤魔化しているだけのただの空気の振動だ。誰の心も揺さぶらない。
「翠のバイオリン、俺は好きだ」
「・・・・え?」
「翠のバイオリンはまだ未完成だ。だが・・・いや、俺も人の事は言えない。まだまだ未完成で稚拙だ」
「ちょ、卯一郎さん!?」
まだまだ、と付け加えたのは、まだ諦めたくないという、さもしさだ。ああ、自分に反吐がでる。
翠が必死に俺を励まそうとしているが、翠は言葉ではなかなか本心を語らないのを俺は知っている・・・。
「卯一郎さんのチェロ、僕、大好きです! もっと一緒に演奏もしたいし、あ、あと、じっくり聴きたいな・・・」
必死に励ましてくれる翠の瞳からぽろっと涙がこぼれたのを俺は見逃さなかった。
ああ、翠・・・その涙を俺は信じていいのだろうか? 翠のその言葉を、俺は信じてもいいのか? そう自問自答している間も、翠の大きな瞳からはぽろぽろと大粒の涙が流れ続ける。その姿を見ているうちに、むくむくと、今までに感じた事のない、柔らかくて温かい感情が俺の心の奥底から沸いて出てくる。悲観的に自分を批判した俺に、慰めの言葉と涙をくれた翠が愛おしい。そうだ、愛おしいく抱きしめて、優しくしたい。キスしたい。そして、もっとその先に進んで翠と結ばれたい。ああ・・・
「まいったな・・・」
こんな風に自分の感情をコントロールできないのは、久しぶりだ。祖母に対してした憎しみと恥ずかしさの、あの時以来か? そもそも、何かをここまで愛らしいと思った事がない。どうしたらいいのだろう? 分からない。まいった、困った・・・。
だが、気が付くと、俺は翠の血色の好い少しぷっくりとした唇に誘われるように、自分の唇を重ねていた。翠は驚いて声を上げようとしたのか、口を開けたのを見逃さない。そのまま舌を差し入れてみると、あまりの熱に眩暈がした。いままで数えきれないぐらいキスはしたし、夜の相手も困らない状態で、経験は多い方だと自負しているが、その数ある中で、こんなにも気持ちが昂ったことがあっただろうか・・・?
翠、なんて愛おしい人・・・
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