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第27話 卯一郎
こんなに誰かに興味を持ち、あまつさえ『愛おしい』と思った事など今までなかった。この気持ちが愛おしいというものでなければ、俺は他に言葉を知らない。翠がずっとそばにいてくれたなら・・・そう思う。その思いが言葉にそのまま出てしまった。
「俺は、お前がとても気に入った。ウィーンに連れて帰りたい」
俺は翠と一緒にいたい、それと同時に翠のヴァイオリンのテクニックをもっと伸ばしてやれるのは日本ではなく音楽の都と称されるウィーンであると、直感的にそう思った。いや、テクニックだけならば日本でも十分に学べるだろう。だが、それでは翠のヴァイオリンはただのテクニックだけのものとなって誰の心にも届かないだろう。あの、素直に自分の心を開いた音を、聴いた者の心に浸透するような優しい音を育てるのはウィーンが良いと、直感で思った。
なのに、翠は急に無表情な人形のような顔をし、その誘いを強く断った。それどころか、明日、このロッジから出て行けと言う。この言い草には、心底腹が立つし、同時に翠に縋ってでも一緒にいたいと嘆願してしまいそうになった。だが、それをするには俺のプライドが邪魔をする。バカみたいだが、このまま諦めてなるものか。絶対に翠にウィーンへ連れて行って欲しいと言わせてみせる。そして、俺のものにしてみせる。必ず。
「俺は諦めが悪いんだ」
だが、実はその逆だ。俺は去る者は追わない主義だ。いつだって付き合う相手が去ろうとも未練はなかった。逆にいつもせいせいしていた。唯一、諦められなかったのはチェロだけだろうな。だが、それもこれまでだ。翠を諦める気には全くなれない。翠にあんな風に拒否されて、さらに燃える気すらした。
いいか、翠。
俺は絶対にお前をウィーンへ連れていく。そして、お前を俺のものにする。
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風呂を洗い、湯が溜まるのを翠は愁眉を寄せ眺めていた。いつもぼんやりして、どこかへ行ってしまいそうな、心はどこかへいってしまっている表情とは違うようだ。翠はどうも先々を考え過ぎなのかもしれない。そんなに先の事ばかり考えてては先には進めないと思うのだが、翠は突然両親が亡くなった衝撃から立ち直ってはいないのだろう。
「ここでお湯が溜まるのを見ているのもなんなので、上に行きませんか?」
「そうだな」
風呂場から部屋へ戻る間の階段や廊下で翠は深刻そうな顔で俯いていたが、やがてチラチラと俺を盗み見始めた。その顔は・・・どことなく誘っているのかと・・・いや、まさか。勘違いさせるその顔は反則だ。それに、余所でそんな顔するなと釘をさしておかねばならないかもしれない。
部屋に戻っても翠の七面相は終わらず、しばらく眺めていたが、ふと窓の外で降る雪が目に入った。かなり降りが強い。
「翠」
「は、はいいい!」
雪が強く降ってきたことが分かると、翠の表情は・・・疲れて憔悴した顔だ。そういえば、このロッジには使用人がいない。と、なると・・・なるほど。積もった雪を取り除く作業は自分達でやらねばならないだろう。だが、二人でやればそう大変でもないと、翠を励ますために声をかけようとしたその時だった。
『ピンポーン』
この呼び鈴が、俺を不機嫌にする音色だとは、思いもよらなかった。
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