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第3話―翠(アキラ)―
「布団を持ってきたので、卯一郎さんはそっちのベッドで寝てくださいね。僕はソファーで寝ますので」
「・・・翠、俺の勘違いでなければ、その持ってきた布団は少々臭いが」
「あ、若干カビ臭いですが、問題ないです」
「・・・・体に良くない」
「明日、晴れたら干しますから、一晩ぐらい平気ですよ」
いや、そんなにイヤそうな顔されても、困るんだけど。使う布団は干してしたけど、他は押し入れに入れっぱなしで。それに別にこれぐらいはなんともないんだけどな。カビ臭いってだけで、カビが目に見えて生えてるワケじゃないし。卯一郎さんは僕の父さんのパジャマを着て貰ったけれど、少しサイズが小さいようだ。父さんはガッチリした体型だけど、身長は・・・・ああ、もう両親の事を考えるのは止めなきゃ・・・
「もう寝ましょう。ろうそく、消しますよ~」
「・・・シャワーも浴びずに?」
「お湯が出ないので。それに電気がつかないので風呂場は暗いですし・・・それでもはいりますか? お湯を暖炉で沸かしましょうか?」
「・・・・いや、いい」
「体を洗うのは昼間じゃないと暗くて大変なんで、明日にお願いします」
「・・・温泉が沸いていた筈だが・・・」
「温泉もタダじゃないんです。湯料を払わないと止められちゃうんです」
「止められているのか」
「すみません」
「謝ることじゃない。俺こそ我儘を言った。悪かった」
「いいえ。お気になさらずに。それじゃ、寝ましょう」
「翠」
「はい?」
「こっちにこい」
「・・・えっと、もう寝ません?」
「だから、こっちへ来て寝ろ」
「卯一郎さんにカビ臭い布団で寝かせられません」
「無論だ。だから俺とこのベッドで寝ればいいだろ」
「・・・・・・は?」
「早くしろ。寒い」
先にベッドに入った卯一郎さんが、掛け布団をぱかーっと開けて、待ってくれてますけど・・・確かに、そのベッドはダブルなので、男二人でも大丈夫ですけど。ええっと・・・こういうのって・・・?
「翠、寒い!」
「はい!」
ちょっとイラッとした卯一郎さんの声に、ついつい返事をして、ついついその横に滑り込んでしまった僕。
あらら・・・と思ってそっと卯一郎さんを仰ぎ見ると、暗がりでカーテン越しのうっすらとした月明かりが影を作って卯一郎さんがどんな表情でいるのか見えなかった。
あまりジッと見ていると、また怒られそうで、僕は仕方なく布団に顔を埋めた。暖炉が部屋の暖かさを保っていたけれど、やっぱり鼻がツンとして寒い。それでも隣に人の温もりを感じて、安心できたのと、朝は集中してバイオリンの稽古。そして昼からずっと薪を集めて森を歩いて疲れていた僕はすぐに寝付いてしまったみたいだった。
眠りに落ちる寸前に、卯一郎さんがドイツ語で何か言って、僕の額にキスをしたような気がしたけど、良く覚えていない。
朝、というか、昼ですね。
こんにちは。
僕が目醒めたのは、もうすぐ正午をまわりそうなところで。隣で眠っていた卯一郎さんの姿はどこにもなく。恐らく、ロッジを出たのだろう。こんななにもない所にいつまでもいるわけがない。ないけど・・・
一言あってもいいのでは~?
そりゃ、貴族様にカップラーメンなんて質素な物で済ませて、お風呂も温泉も何もおもてなし出来なかったけど・・・黙って出てくなんて。
まあ、借金があるって話しもしたから、集られたら面倒だと思ったかもね。そんなもんだよ、世の中って。さて、とりあえず、顔を洗って身支度を整えたら、バイオリンでも弾こうか。今日は晴れてるようだから、あのカビ臭い布団を干そうかな。これだけ雪が積もったんなら、借金取りも来ないだろう。
今日は少し、気持ちが落ち込んでるから家にいたい。よし、バイオリンを弾きまくろう!
身支度を済ませて、僕は大事な愛器をケースから取り出して、弦調を始める。弓に松やにをつけ、さてと、何を弾こうか・・・
そう考えながらまずは指のウォーミングアップを始めた。今日は気分的には静かな曲が弾きたいかな。G線上のアリア、アベェ・マリア。カノンは気分じゃないな・・・課題でやっていたバッハの無伴奏パルティータ・・・は、疲れるからなぁ・・・。とりあえず、G線上のアリアを弾き始めた。
バイオリンを弾いている時だけは、イヤな事を忘れられ、その曲へダイブ出来る。この瞬間だけは僕の世界。僕だけの世界だ。
と、思っていたけれど・・・卯一郎さんの顔が思い浮かぶ。
尊大な顔だったり、眉間に眉を寄せて怒って機嫌の悪い顔。ラーメンを美味しそうに食べてたり、優しく微笑んでいる顔・・・
急にいなくなってしまって、やっぱりちょっとは寂しい。初めは面倒だったけど、話しをして一晩、一緒の・・・ベッドで寝た。あんな風に人の体温を間近に感じたのはいつぶりだろう。楽しかったけど、目が覚めたらいなくなってて・・・
あの人は本当におとぎ話の雪の女王さまだったのだろうか。
「あーあ・・・」
「どうした?」
「うっわ!!」
曲を弾き終え、つい溜息を吐いた途端に、背後から声がかかり僕は驚いて振り向いた。
そこには壁に寄りかかり腕を組んで、こちらをジッと見つめるアイスブルーの瞳。プラチナブロンドの長めの前髪が、サラリと流れている端正な顔。貴族ということもあってか支配するような雪の女王の貫録・・・
「う、卯一郎さん・・・?」
「もう終わりか?」
「え?」
「もう弾かないのか?」
「えっと・・・卯一郎さん?」
「? なんだ?」
「どうしたんですか?」
「? なにがだ?」
「え・・・っと・・・」
続ける言葉が出てこないぐらい驚いてしまって、僕は言い淀んで口をつぐみ、卯一郎さんをじっと見つめる事しかできなくなった。もう出て行って、二度と会えないと思っていた人が、いつの間にかなにもないこのロッジに戻ってきていた。
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