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第7話―翠(アキラ)―
「それじゃ、食べましょうか?」
「ああ」
「それじゃ・・・いただきます」
「日本風の挨拶だな・・・いただきます」
卯一郎さんは僕のやった「いただきます」をそっくりそのまま真似をした。両手を胸の前に合わせて、いただきます、と頭を下げた。そんな卯一郎さんの姿が、とっても可愛らしく見えてしまって、僕は卯一郎さんにばれない様に二ヤついてしまった。
「ワインも買ってきた。肉には赤が良いだろう」
「・・・ワインですか?」
「飲んだ事ないのか?」
「お酒はコンパで呑みますけど、ワインなんてほとんど飲まないですね・・・」
コンパはビールか安い焼酎だった。安い焼酎って、次の日頭が痛くて、大変なんだよね・・・
「なら、呑んでみろ。何事も経験だ」
「そうですね」
「乾杯」
「乾杯」
ワイングラスをスッと小さく掲げて、微笑む卯一郎さん。素敵です・・・。所作がいちいちカッコよくてスマートすぎます。僕はまた二ヤつきそうになりグッと堪える。あんまりニヤニヤしてると、卯一郎さんが変に思うだろう。我慢、我慢・・・
僕は二十歳になってから酒を飲み始めたので、実はまだ・・・というかお酒って何が美味しくて呑むのか分からない。けど、卯一郎さんと一緒に飲むなら、きっとワインも・・・美味しいはず・・・だったのだけど・・・
「しっぶい・・・!」
「? 口に合わなかったか?」
「・・・あの・・・うー・・・すみません」
「謝ることじゃない。無理そうならやめておけ」
「・・・いえ、一杯ぐらいはいただきます」
僕はもう一度、チビチビと赤ワインを飲んだ。この赤ワイン特有の渋さってそのうち美味しく感じる日が来るんだろうか・・・? 口の中に広がる渋い液体。ビールの美味しさも良く分からない僕には、やっぱりこういうものの良さが分からない。 まあ、いい。今はとにかく、やってきました松坂牛さま。一口に切り分けて、口に運ぶ。
「う、美味すぎる・・・! ほっぺが落ちる~・・・」
いやほんと、あまりの旨みの洪水に、カップラーメンで慣らした僕の安舌:(やすじた)と、ほっぺがジンジンとする。痛いぐらいに。あまりの美味しさにほっぺが落ちるとはこういうことだったのかと感心してしまうぐらい。美味すぎる!
「うん。ソースにしょう油を使ったアイディアは良かったみたいだな、翠」
「やっぱりしょう油は万能ですね!」
「そうだな」
「・・・・うっ・・・ニンジンは・・・硬過ぎますね・・・卯一郎さん、残しちゃってください」
「硬いが、味は悪くないし食べられないほど硬くないから気にするな、翠」
「それじゃ、良く噛んで食べましょう」
「ああ」
ステーキには事前に塩コショウ、少々振る。レシピにそんな風に書いてあった。しかし、少々とはこれいかに?
料理などした事がない僕らにとって料理での少々の加減なんてさっぱり分からない。なので、昔、父さんのウンチクで、日本が美食の国なのに、フランスのようにソースの種類が少ないのは、しょう油が万能で、なににかけても美味しいからだ、とうのを思い出し、醤油をステーキにかけた。うん、正解。卯一郎さんと僕と、一緒に作って一緒に食べた料理は初めての割にとっても美味しい物が出来たと思う。人参のグラッセは硬かったけど、うさぎさんよろしく二人でしっかりモグモグと咀嚼した・・・
「腹は膨れたか? 翠」
「はい。とっても」
「コーヒーでも飲むか・・・」
「あ、僕、淹れますから卯一郎さんは座ってください」
「分かった。頼む」
「はーい」
「翠」
「? はい?」
「少し休んだら、俺のチェロとセッションしよう」
「・・・え!?」
「? イヤか?」
「と、とんでもない! でもいいんですか? 僕、あんな感じですけど?」
先程、卯一郎さんがいなくなったと思って、好き放題に・・・いや、卯一郎さんの事を考えながら弾いた僕のバイオリン。たぶん、曲のことなんて考えて弾いてなかったからヘロヘロだったろうな・・・うわ~・・・恥ずかしい・・・
「俺は、翠の音が好きだと思ったぞ」
「へ?! え・・・!」
卯一郎さんが?
僕のバイオリンを好き?
「だから、後でセッションをしたい」
「・・・ぼ、僕で良ければ・・・あの、よろしくお願いします」
いや、ほんと、こんな機会はそうそうない。音楽の都ウィーンでリサイタルをやるようなチェリストと一緒に弾けるとか・・・なんて幸運! まだまだやっぱり世の中捨てたもんじゃない!
卯一郎さんと一緒に飲む為のインスタントコーヒーを淹れながら、僕はニヤける顔を隠しきれなかった。
「コーヒーお待たせしました」
「ああ、ありがとう。翠、ずいぶんと機嫌がいいな」
「え? だって美味しいご飯も食べさせてもらって、更に卯一郎さんとセッションできちゃうんですから! 楽しみすぎて」
「そんなに俺とやるのが嬉しいのか?」
「はい! とっても」
舞い上がっている僕を卯一郎さんは少し困ったように笑って見てきて・・・・
「翠は・・・見ていて飽きないな」
「ええ?!」
ええええ~! その小動物を愛でるような・・・!
「そんな事を言われたのは初めてです・・・」
「ふははは・・・そ、そうか・・・ふふ・・・」
「なんで笑うんです~」
卯一郎さんに僕の笑いの虫でも感染ったのか?でも・・・笑顔が眩しすぎます! 卯一郎さん! やっぱりイケメンはきっとどんなにバカ笑いしてても綺麗でカッコよくって・・・
「そんなに見つめるな、翠」
「え!? あ! す、すみません!」
「お前にそんなに見つめられると、俺も照れる」
「え? あ、あの、すみません」
「謝らなくて良い、翠」
「・・・・・・は、い・・・」
そんなに見つめられると照れちゃうのは僕の方です、卯一郎さん! 恥ずかしい・・・
コーヒータイムはなんだかとても甘酸っぱい、そしてキラキラした大事な時間になった。
そう、とっても大事な時間。でも、僕は恐ろしい。
両親が突然亡くなって、東京で音大に通う為に一人で暮らしていた僕は、とても後悔したんだ。何気ない、ひとつひとつの思い出が、実はとても大事なものだったのだと。当時はそんな事も分からずに、音楽家への道へ進もうとした僕を両親は笑って応援してくれた。僕はそれを当たり前のように受け取って、東京へ出たんだ。
母さんは朝も一人で起きられない僕に一人暮らしなんて大丈夫なのかとすごく心配してくれた。父さんは、熊の様な大きな手で僕の背中を叩いて、盆と正月ぐらいは顔を見せに帰っておいでと言ってくれた。
一人暮らしが始まってからも、月に何度か仕送りをしてくれて・・・。届いたクール便にはいつも母さんが作ってくれた煮物などの手料理と、保存食が詰まってて・・・料理が出来ない僕の為に工夫されていた。同封されてた手紙にはいつも「今度はいつ帰ってきますか? たまには顔を見せにおいで」と書いてあったのに、一年生の時の夏休みは、課題がなかなかクリア出来なくて、先生のレッスンが夏休中あったから帰れなかった。正月は帰ったが二日ほど泊ってすぐに東京へ戻った。母さんは、もう少しゆっくりしていけばいいのにと、寂しそうだったが、正月明けにレッスンが入っていたので、僕は義理は果たしたと言わんばかりな態度だったんだ。2年の時もそんな感じで過ごして、そして、無事に三年になった今年の夏、帰るつもりだった。両親に元気でやってるって安心させるために。
けれど・・・
本当にどれだけ感謝してもし足りないぐらいくらいなのに、当時の僕はとても能天気でバカな奴だった。両親への恩返しがもう出来なくなってしまったと気付いて、僕は自分の愚かさに悔しくて泣いた。
そしてもう一つ、気付いたんだ。そんな幸せで大事なものは、悲しい思い出に簡単に変化してしまうことも。楽しかったからこそ、思い出すたびに、思い出が僕の心を針のようにチクチクと突き刺す。刺されてしまった心は傷ついてずっと血が流れて弱っていく。
だから、こうやって卯一郎さんとの楽しい思い出も、簡単に消えて、悲しい思い出になるんじゃないかって、僕は心のどこかでひそかに怯えた。
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