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第8話―翠(アキラ)―

コーヒータイムを終えて、僕らは娯楽室へ移動した。娯楽室にはエアコンがあって冷暖房完備。暖炉もいいけれど、娯楽室はそこそこ広い。暖炉だけでは寒すぎるんだ。エアコンを点けて、卯一郎さんに座ってもらおうとアップライトのピアノの椅子を用意した。チェロは座って演奏する物だから。僕は自分のバイオリンを出して、弦調を念入りにした。あ、少し緊張してきちゃったか。誰かいるところでバイオリンを弾くのは半年ぶりだ。しかも・・・セッションなんて・・・わああ・・・そうだよ、誰かと一緒に演奏するのって・・・すっごい久しぶりじゃん・・・。大学のサークルのオケ以来? そうだよ・・・やっば・・・ 「曲は何にする?」 卯一郎さんも弦調を終えたのか、こちらを見て、なにを一緒に演奏しようかと聞いてくる。けど、僕は・・・ 「あ、あの~・・・卯一郎さん」 「ん? なんだ?」 「僕、誰かと一緒に演奏するの・・・久しぶりで・・・そういう曲もあまり知らないんです・・・」 「そうか。だが、別に演奏会というわけではないのだから、二人が知ってる好きな曲で適当にやればいいと思うが?」 「えっと・・・即興みたいな? 感じですかね・・・?」 「曲目だけ決めれば、それで構わないだろう」 えっと・・・メジャーで、できればあんまり難しくない曲がいいな・・・何が良いだろう・・・? 「ユモレスク、はどうだ?」 「え? ユモレスクですか?」 「日本に着いた時に、テレビCМで流れていた」 「ユモレスクでお願いします」 「わかった、それでいこう」 よかった~。ユモレスクならそんなに難しくないし、課題でやった曲だ! 「よろしくお願いします」 「なんだ、レッスンじゃないんだぞ?」 レッスンの気分でうっかり頭を下げてしまった僕に、卯一郎さんは苦笑いだ。そうか、これはレッスンじゃない、二人で音楽を楽しもうってことだ。だったら、大いに楽しまないと。音楽はその一瞬一瞬で変わる。だから、いま、この時を楽しい音楽の時間にしよう。 「よろしくお願いします、楽しみましょう、卯一郎さん」 「ああ、楽しもう。翠」 アインザッツで二人の弦が、この古びたロッジの娯楽室に響き渡る。ユモレスクはドヴォルザークが作曲した。よく聴く有名な曲は正確には「8つのユモレスク」という小品集の7番目の作品の一つ。チェコの片田舎で育った彼が、この曲をどう思いえがいて書いたのか・・・ 卯一郎さんのチェロは自由でいて、それでいてしっかりした音色で、キラキラ光る美しい草原のような風が吹いた。それでいて、土をどっしりと感じる力強さ。僕はそのチェロに寄り添うように弓を走らせ、気持ち良く曲の中にダイブした。 「・・・はあ・・・」 最後の音を弾き終えると、僕は息を吐いた。ああ、気持ち良かった・・・もう終わっちゃった・・・ 「翠のバイオリン、俺は好きだ」 「・・・・え?」 「翠のバイオリンはまだ未完成だ。だが・・・いや、俺も人の事は言えない。まだまだ未完成で稚拙だ」 「ちょ、卯一郎さん!?」 卯一郎さんが自分を自虐し始めた!? な、なんで?! 今日は吹雪にダイヤモンドでも混じるかも!?いやいやいや、そんなことより・・・! 「待って、卯一郎さん! 卯一郎さんのチェロ、すごかったです! 僕なんて、支えてもらえっぱなしで、そんで、僕も調子に乗って寄りかかりすぎちゃいました! でもホント!卯一郎さんのチェロって、自由で、しっかりしてて・・・春風のようにキラキラしてた!」 「翠・・・」 「卯一郎さんのチェロ、僕、大好きです! もっと一緒に演奏もしたいし、あ、あと、じっくり聴きたいな・・・」 「翠・・・なぜ泣くんだ・・・?」 「え?」 卯一郎さんは驚いた顔で僕を見ている。 僕はいつのまにか泣いていたんだ。どうして涙が出るんだろう? ポロポロと流れる涙は自分の意志で止められない。心配そうな表情へと変わっていく卯一郎さんは、ゆっくりと立ち上がって僕を上から見下ろした。 「まいったな・・・」 そういうと、卯一郎さんはチェロを置いて、僕を抱きしめた。そして、僕の顎を右手で軽く持ち上げると、僕の唇に卯一郎さんの唇が重なった。 あ、あれ? なにが起きたのか理解できず、僕はそのまま固まってしまった。初めは優しく触るように重なった唇。卯一郎さんの唇は見た目よりもずっとふっくらと柔らかい感触だ。何度か押し付けられるように角度を変えて、そして・・・ 「んん?? ん~・・・」 卯一郎さんの舌が何度か僕の唇をなぞったから、僕はビックリして声を上げようと口を開けた。けれど、開けたらそのまま卯一郎さんの舌が、僕の口の中に入ってきた!  そのまま驚いて奥へ引っ込んでしまった僕の舌を卯一郎さんの柔らかくて熱い舌が、絡め取った。殆ど仰向きになっている僕の頭を卯一郎さんの右手がガッチリと掴み、腰には力強い左腕が回って僕は卯一郎さんから体を離す事が全くできないでいた。僕は両手にバイオリンと弓を持っていたので、ほとんど卯一郎さんのなすがまま。 卯一郎さんの舌が、僕の舌をさすり、口内を確かめるような仕草でくすぐってくる。その度に、僕の背筋をゾクゾクとした感覚が駆け巡り、僕はだんだん立っているのもつらくなるほどに、体に力がはいらなくなっていった。 カターン! 「あ!」 力が入らなくなってしまった僕の右手から弓が床へ! 「わあああ~」 僕は大慌てて卯一郎さんの腕から抜け出すと、床に落ちた弓を拾い上げ、どこか壊れていないか念入りに調べた。 ・・・・良かった・・・大丈夫みたいだ。 バイオリンっていう楽器は、音を出すのに弓がいる。 そして、その弓も実は結構高価なものなんだ。バイオリンばっかりが何億と高価なイメージだけだけれども、弓にも名のある職人がいるぐらいに。 まあ、ぼくのは大量生産の弓だから職人が作ったものに比べれば全然安い。が、僕にとってはかなり高価なんだ。 ああ、冷や汗が・・・ 「すまなかった、翠・・・」 「え?」 そうだ、弓を落として、すっかり卯一郎さんの事が頭から吹っ飛んでいた。 ・・・・ ・・・・・・ うあああああ!!! 「ううう卯一郎さん! あの! さ、さっき・・・ななな、き、き・・・」 なんでキスなんてするんですか? と聞きたかったけれど、さっきの卯一郎さんの柔らかい唇やら、熱い舌とかの感触が蘇って、僕は顔がドンドン赤くなっていくのを感じた。恥ずかしいやら照れくさいやら、あれが僕のファーストキスだったとか、もうどうでも良い事まで頭の中が支配してゴチャゴチャして・・・ 「少し落ち着け、翠」 「う、え、ういちろーさん・・・!」 苦笑いで少し困ったような卯一郎さんは、うろたえ顔が真っ赤になっているだろう僕を、ギュッと抱きしめた。そして、落ち着かせるように僕の背中をポンポンとリズム良く叩き始めた。 これって、眠れない子どもを寝かすやつですよね?

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