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第9話―翠(アキラ)―

「すまなかった」 「い、いえ・・・こ、こちらこそ・・・その・・・」 「翠、お前はとても美しい。お前が泣くのを見て、止められなかった」 「・・・・・」 そうだ。僕はさっきまで泣いていたんだった。でも突然、卯一郎さんに・・・その・・・大人の・・・キス的な・・・それで驚いて、いまはピタリと止まってる。 「翠、大丈夫か?」 心配そうにまた僕を見つめてくる卯一郎さん。卯一郎さんの高い通った鼻先が僕の鼻にくっつきそうなぐらいの近さで、僕は今度は顔が赤くなるのを感じてきた。卯一郎さん、はっきり言って、美しいのは貴方です。そして近いです~! そんなキラキラでおとぎ話のような美しい顔をこんな間近で見られるなんて・・・いや、そうでなく! 「だ、大丈夫です・・・すみません・・・突然泣いたりして」 「いや・・・」 「も、もう、大丈夫ですので、その・・・離してもらっても良いですか?」 「ああ・・・」 卯一郎さんは僕からそっと、離れるが、まだその表情は心配そうな顔だ。でも僕も涙の意味を僕自身が理解できないでいて、どうにも困ってしまって・・・ 「本当にすみませんでした。でも、どうして涙が出ちゃったのか、僕にも良く分からなくて。きっと・・・卯一郎さんのチェロに感動したのに、卯一郎さんが哀しそうだったから、僕も哀しくなっちゃったのかもしれないです」 そうだ! たぶんそれだ! だって、卯一郎さんはすごく綺麗で、見た目だけじゃなくて、中身もすごく素敵な人だ。そして、チェロもすごく上手かった。一緒に演奏してそう思ったんだ。何度か背中をゾクゾクとした感覚が走った。ぼくはよく、スゴイ演奏を聴いたときにそうなるんだ。だから、そういう演奏が出来る人が自分を貶める姿を、僕は見たくはなかったから。 「俺が哀しそうにしていた?」 「だって、卯一郎さん、自分のチェロが大した事がないって・・・」 「・・・事実だが?」 「いいえ! それは事実じゃないです! 絶対!」 あああ~! また! もう! 「分かった、落ち付け翠。また泣かれたら・・・」 「泣きませんよ?」 「そうか、残念だ」 「残念?」 「また泣き始めたらキスができたのに」 「う、う、ういちーさん・・・!」 「俺は、お前がとても気に入った。ウィーンに連れて帰りたい」 卯一郎さんはそういうと、ニッコリと微笑んだ。僕は・・・卯一郎さんのその素敵な・・・太陽のような暖かな笑顔に見とれて、言葉の意味を理解するのに数秒要した。 「・・・・えっと、ありがとうございます?」 「なんだ? なぜ疑問形だ」 「いや、冗談にしてはあんまりおもしろくないかな~って」 「冗談じゃないからな」 「・・・・・ほ、本気ですか?」 「本気だ」 「すみません。本気ならお断りします」 「少しも考えてくれないんだな、翠」 「・・・・卯一郎さん、いろいろとありがとうございました。卯一郎さんに出会えて幸せです。なので、明日にでもココを出てください」 「翠・・・・なぜだ・・・?」 なぜって・・・それは・・・ 「それは・・・僕自身の問題でして。あの・・・支払って頂いた公共料金とかは、なんとか・・・お返しします。手持ちが全くなくて・・・」 「それはいい。俺が勝手にやったことだ。それよりも、翠、お前自身の問題だとは分かっているが、借金をきにしているなら、俺がなんとかしてやる」 「それも、もちろん問題の一つですが・・・・そうではなくて」 「それは一体何だ?」 「い、言いたくない」 話したら泣そうだ! それに、上手く説明できない、僕には僕の気持ちが理解できてないんだ! 「なら、俺は諦めない」 「いや、無理です。そもそも男同士ですから。気に入られても何もできません」 「男同士でもいろいろできる。それは問題ない」 ・・・・・いや、問題あるとおもいますよ! 卯一郎さん~! 「とにかく、俺は翠を置いては帰らない。ウィーンに帰る時はお前も一緒だ」 「う、卯一郎さん・・・」 「俺は諦めが悪いんだ」 ニッコリ太陽の妖精のようにしかし、北風の強引さで優雅に微笑む卯一郎さん。でも瞳の奥に燃えるようなアイスブルーの焔がチラリと見えたような気がして、僕はブルルと思わず身を震わせてしまった。 初めて会った時は雪の女王のような冷たい雰囲気だったのに、卯一郎さんという人を知る度に、とても優しく暖かい、しかし、狙った獲物は逃がさんとばかりに見つめてくる瞳。一体卯一郎さんという人はどういう人なのだろう?  娯楽室から無言で出て、居間の代わりにしているロッジマエストロで一番広い部屋へ戻った。卯一郎さんもその間、なにも話しかけてこなかったが・・・視線を感じる。 うううっ、痛い。雪の女王さまの視線が、ツララになって僕の体に突き刺さるようだ。 卯一郎さんの突然の告白・・・・・告白というのだろうか? 良く分からないな。 ただ、卯一郎さんは僕を「ウィーンに連れて帰る」と、言っただけ。愛の告白・・・・という訳ではないかもしれない。確かめてみようか? さっきのは愛の告白ですか? って。 ・・・・・無理だ。 それで、イエスでもノーでも僕はウィーンに一緒に行けるわけがない。パスポートもない。言葉もできない、知り合いもいない。なによりお金がない。ないないだらけ。ビックリするぐらい僕には何もない。

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