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第31話ー翠(アキラ)ー

「翠・・・」 卯一郎さんの声は男性らしい低さで、それでいてトロンと柔らかく耳に心地よく入って、僕の鼓膜をぷるんと揺らす。その声に誘われるように、僕は伏せていた顔を卯一郎さんに向ける。卯一郎さんの瞳が階段の段差のお陰で僕の瞳と同じ高さにアイスブルーの湖のように湛えみつめてくる。 「卯一郎さん・・・」 僕と卯一郎さんの距離が、互いの息がかかるくらいに接近し、そのまま唇がさわりとついた時だった。 「お前ら朝からイチャついてんじゃねーよ!! さっさと飯を食いにこい!」 「ふわあああ」 「ちっ」 僕は山城さんの不機嫌な声に驚いて、意味のわからない言葉を発し、卯一郎さんは僕にしか聞こえないぐらいの舌打ちをした。階段の途中で止まってなかなか降りてこない僕たちを、山城さんは腕を組み、階段の下から不機嫌そうに見上げていたんだ。 「・・・・朝ごはん、たべましょうか? 卯一郎さん」 「・・・・ああ」 明らかに不機嫌な声色の卯一郎さん。でも、僕の意識はさっきから漂ってくる朝食の良い香りに引き戻され、お腹がきゅうきゅうと動いているのが分かった。 「わ~・・・美味しそう・・・これ、全部山城さんが作ったんですか?」 「・・・サラダ以外は俺が作った」 「え? じゃあ、サラダは・・・」 「俺が作った」 卯一郎さんが、ちょっと得意げにそう僕に言った。 「そんな・・・卯一郎さん・・・料理が出来るようになったんですか! すごいです!」 たった一日で料理が出来るようになるなんて、さすが卯一郎さん!! 「料理のうちに入んねーわ。ただレタス洗ってちぎって盛っただけじゃねーか」 確かに、サラダは緑一色のレタスの山だった・・・。それでも、僕はなんだか嬉しい。たとえ洗ってちぎって盛っただけでも、卯一郎さんの手作りだ。 「卯一郎さん、美味しそうです」 「そうか、よし、食べよう」 「・・・・もういやこの二人なんなの・・・」 山城さんがゲンナリしているのは分かってる。僕だって傍からみたら、きっと『げ~』って思うだろう。でも卯一郎さんとのやりとりは僕にとってはどんなにくだらない内容でも特別な時間になっていたんだ。僕はそれをかみしめる。だって・・・ 「翠? どうした?」 卯一郎さんの心配そうな声に、僕は落ちていきそうな意識を元に戻した。 「? 大丈夫ですよ? なんでもないです」 「そうか・・・?」 「見つめ合うのも結構ですけど、熱々で出した物を冷やして食うのはお行儀よくないですよ~」 山城さんの白けた声と顔。確かに熱々に出してもらったごはんを、僕らのおしゃべりで、冷ましてしまっている。山城さんの言う通り、熱々の物は熱々のうちに食べなきゃね。 「それじゃ、いただきます」 「いただきます」 「いただきます~」 三人がテーブルについて食事を始める。不思議だ。僕は一人になったのに、今はこうして一緒にごはんを食べる相手がいる。別に特別なことじゃなかったはずだった誰かと一緒に食事をするって光景が、今の僕には胸にせり上がって来る切なさと幸福感で満たされていく。 両親が生きていた頃は当たり前のように受け取っていた当たり前のなんでもない日常の光景。当たり前すぎて意識もしなかった幸せ。こんなことを大事に思っていなかったあの頃の僕。 「どうした? 翠? 食が進んでないな・・・?」 卯一郎さんがまた心配そうに僕に声をかけた。僕はただ、微笑んで首を振る。嬉しいな・・・こうやって誰かに心配されることなんて、もうほとんどなかったし。両親以外は僕を気にとめてくれる人なんていなかったし・・・ 「翠ちゃん? マジで大丈夫か?」 「具合が悪いのか? 無理をしないで今日はゆっくり休んでいろ。雪かきは山城がやる」 「ちょっと待て。なんで俺だけが雪かきなんだよ?」 「俺は翠の看病だ」 「なにいってんだゴラ!」 「ちょ、ちょっと二人とも、止めてください! 僕は元気ですから、僕が雪かきしますから!」 「翠は大人しくしていろ」 「雪かきは、ういちゃんがやるって、無理すんな。な?」 「おまえこそ、なにを言っている?」 「あ~も~! みんなで雪かきしましょう? その方が早く終わりますから!」 僕は笑いが堪えられく、ゲラゲラ笑いながらそう言った。二人は睨みあっていながらも、恐らく外の積もった雪の量を考え、僕の提案を受け入れてくれた。そのあとは、食事をしながら他愛もない話。屋根に積もった雪は、大部分が自然に下に落ちていたとか、暖炉に使う薪や食料を買いに行けるかどうか道を見てくるとか、そんな話。そんな話を食事をしながらできる幸せを僕はひたすら貪り、味わって、腹を満たしていった。

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