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第15話―翠(アキラ)―

泡をたくさん作った卯一郎さんは、優しく小鳥でも撫でるように僕の背中を洗いだした。泡で洗うって感じにゆっくりサワサワと洗うんで、背中がなんだかこそばゆい。というか、洗ってる感じがまるでしない。しばらく卯一郎さんがサワサワと洗うの手付きを僕はグッと我慢してみた。が、くすぐったい。そして、全く洗えてる気がしない。僕は身体や頭を洗う時、ガシガシと力を込めて洗うんで、卯一郎さんの優しいソフトタッチな洗い方だと、すごく物足りない。そして、とにかくくすぐったい。僕が耐えられず体を少しくねらせると、卯一郎さんが手を止めた。 「ちょろちょろ動くな翠。洗いにくい」 うーん、怒られたが、そんな風に洗われてると、我慢できない。 「卯一郎さん。リクエストありですか?」 「リクエスト? 言ってみろ」 「もう少し力を入れて擦ってもらえませんか?」 「・・・こうか?」 いやいや、まだまだ。 「いえ、もっと強めに」 「・・・・こうか?」 「もっとお願いします」 「いや待て。こんなに力を入れたら肌が傷むだろう?」 「え? 俺はいつももっと力を入れて洗ってますよ?」 「・・・・え?」 卯一郎さんの『言ってる意味が分からない』と言う風な『え?』に僕は卯一郎さんを振りかえった。卯一郎さんは案の定、眉間に皺を寄せている。うーん、でもなあ・・・洗った気が全くしないんだよね・・・卯一郎さんは貴族だから優しく・・・ん? まさか・・・僕は前を向き直し、鏡越しの卯一郎さんに疑問をぶつけた。 「卯一郎さん、もしかして・・・・自分で体を洗ったこ・・・」 「バカを言え。普段も自分で洗っている! 俺は別に一から十まで執事にやらせてはないぞ」 「あ、そうなんですか? 貴族って自分の事は自分でやらない人達だと思ってました」 だって、貴族だ。執事さんが体を拭いてくれんなら、体も洗ってあげているに違いない。 「翠の思い描いている貴族と執事はおかしいぞ」 「うーん、貴族と知り合う機会なんてあるとは思いもよりませんでして・・・いろいろ後で教えてもらえますか?」 「ああ、いいぞ。翠も演奏会を開くようになったら貴族との付き合いが出てくるだろう。その時の為に、勉強しておいた方がいい」 「いや、そんな機会はありませんけど」 演奏会で貴族と知り合うってこと? そもそも演奏会の予定なんて・・・訪れる事はない。 「? バイオリンで生計を立てていくんだろう? ならば海外での生活も意識に入れておくべきだ」 「ははは・・・まあ、そうですねぇ・・・」 「? なんだ?」 「いえ、なんでもないです」 「お前は・・・またそうやって胸に仕舞い込むんだな」 「あー・・・・日本人の(さが)ってやつですかねぇ」 僕は、卯一郎さんの『バイオリンで生計を立てていく』という言葉に、また将来への不安が頭を(もた)げてきて胸をジワジワと侵食してくるのを感じた。卯一郎さんと楽しく過ごしているうちに、不安が消え失せていくわけじゃない。そうだ、あの赤毛こと山城さんも、縛ってそのままにしておくわけにいかないだろう。彼は自由になったら警察へ行くのかな? 卯一郎さんは逮捕されるのは山城さんの方だって言ってたけれど・・・。 「翠? どうした? 大丈夫か?」 鏡越しに卯一郎さんが心配そうに僕を見ている。その心配そうに僕を見る目と僕の目があった。見た人を凍らせてしまいそうな神秘的で美しいアイスブルー。僕はその一瞬でまた心を奪われて体が凍ったように動かなくなった。この美しい瞳をずっと見て過ごせるなら、それはきっと素晴らしい毎日だろう。誰もいなくなった世界で、綺麗な物だけを見ながら過ごせたら、焦りと不安で押しつぶされそうな日々を全て投げて捨ててしまえたら、それはどんなに・・・・・ 「翠・・・・」 背中に体温を感じ、僕は現実へと引き戻されて、その、どういう状態なのかを知った。 状況の理解が進むのと同時に僕の顔が真っ赤になっていく。たぶん、首まで真っ赤だ。 だって、その、卯一郎さんが、背中から僕を包む様に抱きしめてきたから。 「う、卯一郎さん・・・?」 「すまない。でも、翠がどこかへ行ってしまって戻ってこないから心配で」 「え? 僕はずっとここにいますが?」 卯一郎さんったら何を言っているんだろう? 僕はここで、ずっと卯一郎さんに背中をながしてもらっていた。だからどこにも行ってないけど? 「・・・・翠は時折、いなくなる」 「? 卯一郎さん?」 「そういう儚さも美しいとは思うが、俺は不安にもなる」 「? 僕は・・・ずっといますけれど・・・」 照れくさくて仕方ないけれど、僕は無意識に卯一郎さんの体に自分の体を寄せていた。 卯一郎さんの体が腕が、僕の体に体温を伝わらせていく。人の体温ってとても安心する。きっと、同じベッドで眠った時も、僕は卯一郎さんの体温を感じて安心できたんだ。 しかし、その、裸でいつまでも抱き合うというのは・・・ 「う、卯一郎さん、膝が痛くなってませんか? その、膝立ちだし、ええっと・・・」 恥ずかしいです、卯一郎さん。 「・・・・背中を流している途中だったな。翠のリクエスト通りにもう少し力を入れて摩るが・・・」 そう言って、卯一郎さんはそっと、まるで名残惜しそうに僕から離れていった。体温が遠くなって感じなくなってしまった僕も、何故だかとても・・・寂しい気持ちが込み上げてきたような気がした。 卯一郎さんは、もう一度、僕の背中を洗いはじめたが、初めの時よりは多少強めに、それでも僕には優しいタッチで背中を流してくれた。 「ありがとうございました。卯一郎さん」 「そろそろ湯船に浸かるか? 肌が冷たくなってる」 「あ! すみません、卯一郎さん! 湯冷めしちゃってませんか?」 「さっき湯に浸かったから大丈夫だ。ここの温泉は湯冷めしなんだろう?」 「よくご存知ですね」 「翠の父親が、昔俺たちが来たときに、流暢な英語で説明してくれた」 「あ、そうなんですか?」 「祖母は日本人で日本語は話せるが、俺はその時は日本語が理解できなかったからな。親切な方だった」 父さんは日本語が分からない卯一郎さんが理解できるように英語でわざわざ温泉の効能を話してあげたんだ・・・。父さんは若い頃、世界中の山を登るのが趣味だったから、英語が出来たんだ。流暢かどうかは英語の出来ない僕には良く分からないけど。 そっか。 「翠、湯に浸かれ」 「あ、はい。そうします」 僕と卯一郎さんは、広い浴槽へと体を沈めた。お湯を止めるのが遅くなって溢れてしまっていたので、二人が入ると、ザバーっと音を立ててお湯が勢いよく流れ出ていった。

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