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第20話―翠(アキラ)―

「下手でもブーしないで最後まで聴いてくれますか?」 「翠の演奏でブーイングなんてしない。俺の方がブーイングを貰うかもしれないな」 「それは絶対にないですよ!」 「もういいからさー、弾くならさっさとやんなよ、君たちー」 山城さんのうんざりしたような声で、ハッと気が付いた。卯一郎さんはソファに座ったままで僕の方に前かがみに寄って、僕はさっき食事をしていた姿勢から卯一郎さんの方へ体を向けて、膝立ちだったんだけど、上から僕を近距離で見つめる卯一郎さんと、なんていうか・・・キス出来そうなぐらいの距離だった。僕は卯一郎さんと近距離で見つめ合っていると知った瞬間、顔が熱を持って赤くなるのを感じた。だってさ、どんなに見つめても何回見ても、卯一郎さんはすごく綺麗で、キラキラしてるんだよ。こんな綺麗な人、僕は見た事がないから。テレビだって雑誌だって、こんなに綺麗な人を見た事がないよ。 「えっと、難しいのじゃなくてもいいですかね・・・」 「翠が奏でるバイオリンならどの曲でもきっと良い・・・」 まるで花が咲く瞬間のような、卯一郎さんの綻ぶ笑顔・・・・いや、もう、この人は人の美しさを超えてる。神の領域だとしか思えない美しさ。 「翠、また口が開いてるぞ」 「んぐ!」 「もういいからはよ、やれよ・・・・」 心底うんざりしたように、山城さんが溜息を深々と吐いて、僕らを呆れた顔で見ていた。 時々不気味な屋鳴りがするが、耳を塞いで、僕たち三人は娯楽室へと移動した。ココには古いアップライトのピアノがあるんだ。と、言っても、たぶんずっと調律してないだろうから、音は狂ってるかもね・・・。 僕と卯一郎さんは弦調をして、弓に松ヤニを塗った。その様子を以外にも興味深そうに山城さんが静かに見ている。この人、クラシックとか聴くのかな? その風貌からだとロックとかデスメタルとかを普段は聴きそうだけど。 「卯一郎さん、曲は何でもいいですか?」 リクエストされても、難しいのだと困る。できれば、僕の好きな曲を弾かせてもらいたいな~・・・・なんて・・・ 「そうだな・・・バッハの無伴奏のどれか・・・」 「え。バッハの無伴奏・・・」 「弾けないのか?」 「あー・・・いえ、レッスンでパルティータの1番を・・・やってはいますが・・・」 「では、パルティータを」 卯一郎さんはにっこりと僕に「どうぞ、楽しみです」的な笑顔を向けて促した。 が、しかし。問題がいっぱいだ。 レッスンでやってはいる。暗譜も出来てたりする。でも、合格点を貰ってはない。そう、僕の弾くパルティータ第1番は正直に言って、人に聞かせる域に達してないんだよね・・・。 と、いうか、お恥ずかしい話、僕は学内のコンクールでさえも何かの賞に選ばれた事がなく、輝かしい成績みたいなのもない。普通。本当に上でも下でもなく、ど真ん中なんだよね。でも、担当の先生はいつも熱心に教えてくださるから、僕も頑張るんだけど・・・。 努力が報われると言う人は、成功した人であって、僕みたいになにもない人間が・・・ 「翠?」 卯一郎さんの声にハッとした。目を上げてみると、卯一郎さんの顔がまた、キス出来るぐらいの距離。卯一郎さんはその美しい顔の眉間に皺を寄せていた。僕は人差し指で卯一郎さんの眉間をそっとなでなでしてみた。 「卯一郎さん、眉間に皺が寄ってます」 「・・・・翠、大丈夫か? またどこかへ行ってたぞ?」 「え?」 卯一郎さんがまた、僕がどこかへ行っていたって言うけど・・・僕はずっとここにいるんだけどなぁ? 卯一郎さんたら、どうしちゃったんだろうか? でも、卯一郎さんの綺麗な顔を眺めてると、確かに時々、ぽーっとしちゃうんだよね。あー・・・そうか、ぼんやり突っ立ってるから心配されちゃったかな? 「卯一郎さんに見惚れてしまって、ボーっとしてました。すみません」 「え?」 「え?!」 卯一郎さんの綺麗な顔を・・・という話をした途端に、卯一郎さんの頬がちょっとあからんで、ビックリしたみたいに小さく瞳が開いた。そして、キス出来るぐらいの距離が、スッと開いて、僕と卯一郎さんに距離が開く。そんな卯一郎さんに僕も驚いてしまった。 そんな僕に卯一郎さんがちょっと困ったように小首を傾げて苦笑いをして、 「・・・・翠、俺もそうストレートに褒められると照れる」 「ええ! で、でも、本当のことですし・・・というか・・・卯一郎さんは褒められ慣れてるんだと思ってましたけど・・・」 「そうだな・・・でも、気になる相手に言われるのとどうでもいい相手に言われるのでは感じ方が違うんだろう・・・」 そういうと、卯一郎さんは僕から視線を逸らして、耳まで赤く染めていた。 うっそー! ちょっと! すっごい可愛いんですが!! なんかもう、すごい! 可愛い! 可愛い! あー! 卯一郎さん、めちゃくちゃ可愛いです! 「あのー、いつになったらリサイタルは始まるんですかねー」 「あ・・・」 声の主に視線をやると、山城さんは座った目をしてこっちを見ていた。そうだ、山城さんがいたんだった。ちょっと忘れてたよ。 「俺がいるの、二人とも忘れてるだろ・・・」 「忘れてはいないが、邪魔だとは思っている」 「すみません、忘れてました」 「二人とも、すごいストレート~・・・・」 ピアノの椅子を逆にして跨いで座っていた山城さんは、そのまま背もたれに額を当てて突っ伏してしまった。さっきからこんな風に、山城さんは呆れたようにするけど、なにを呆れてるんだろう? ホント、変な人だなぁ・・・。

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