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第21話―翠(アキラ)―

さて、問題のバッハのパルティータ。うーん、卯一郎さんは聴きたがってるけど・・・ 「あの、卯一郎さん。僕のパルティータはまだ先生から合格点を出されてなくてですね・・・」 「ふむ・・・なるほど。師匠からのお墨付きが貰えていないから弾きたくない、という訳だな?」 「まあ、そんなところで・・・」 「翠は誰かに合格点を貰わなければ、その曲を弾かないのか?」 「え・・・?」 「今は音楽を心から楽しむというスタンスで、構わないと思ったが・・・翠は合格点を師匠からもらっていないから弾きたくないんだろう?」 卯一郎さんに言われて、僕は考える。確かに僕のパルティータは先生から合格をもらっていない。合格を貰っていないから弾きたくない。 本当にそうなのかな? 先生が合格を出してくれて人前で弾くの? 僕は? 「翠、翠がどう思うかが大事だと、俺は思うんだが・・・」 「僕がどう思うか・・・ですか?」 「そう思うのはおかしいだろうか・・・?」 僕のバイオリンはまだまだ未熟で・・・でも、この『未熟』というのはいつまで未熟なのだろうか? 学校を無事に卒業しても成熟した演奏ができるんだろうか? 先生が合格点を出したらゴールなんだろうか? いや、違う。違うんだ・・・僕は・・・ 「僕は・・・僕が思うのは、今の僕のパルティータはとても人前で弾けるような・・・僕の頭の中に流れるパルティータなら人前で弾きたいと思えるんですが・・・実際、腕がついていってない、だから人前で弾くのがイヤなんだと思います」 「そうか、それが翠の思っていることなんだな」 「ええ・・・はい、そうです・・・ええ・・・」 そう、僕は先生に合格点を貰っていない、というのを理由にして人前で弾きたくない理由を語ったけれど、本当のところ、僕自身、まだまだ人前に出せるような曲の突き詰めが方が出来てないからイヤなんだ。なのに僕自身が人前で弾きたくない思いを先生のせいにしていたんだと思う。 自分のことなんだけど、自分の気持ちを外に出して言うのってすごく苦手。だって、怒られるんじゃないかって、嫌われるんじゃないかって、そう考えちゃうから。 臆病な卑怯な話なんだけど・・・無意識に壁を作って防衛しちゃう。恥ずかしいな、僕。 でも、卯一郎さんは、僕の話を聞いて、なんだかジッと考え込んでいる。どうしたんだろう?やっぱり僕の話、変だった? なんかおかしかったかな? もしかして嫌われた? どうしようか? 僕は卯一郎さんの態度に焦って、なにか言おうと思ったんだけど、それよりも早く卯一郎さんが口を開いた。 「・・・俺は、人の評価が気になってしまって、思うようにチェロが弾けないんだ。自信満々に自分の音楽をやっているとずっと思っていた。だが、それはただの思い上がりだった。俺には音楽の才能がない。ミューズは俺には微笑まない。だから逃げるように日本へ来た・・・翠が俺のチェロを褒めてくれて、嬉しくもあったが、俺は・・・苦しくもある。翠が聴いたらどう思うか? それを無意識にでも意識して弾いている。俺は・・・自分の中に音楽がない。張りぼての紛い物」 「ええ?!」 「はぁ!?」 卯一郎さんの突然の告白。衝撃な告白。 僕は思わず驚きの声を上げたが、僕と同時に山城さんの驚きの声も重なった。その後、誰も口を開かない。なんていうか、時間が止まってしまったみたい。でも、重苦しい空気だけは健在なんだ。卯一郎さんの、重い告白。苦しい苦しいとずっと一人で足掻いてもがいて、やっと絞り出した告白。僕はそんな卯一郎さんを見ているのが苦しい。卯一郎さんが苦しんでいるのを見て、僕も苦しいんだ。 「卯一郎さん・・・」 「翠・・・?」 僕は、卯一郎さんの傍へ寄り、両手を上げて、そのまま卯一郎さんの頭を抱き寄せた。背が高い卯一郎さんを抱き寄せ、その頭を肩預ける。僕と同じシャンプーの香りを漂わせる柔らかいプラチナブロンド。僕とそう大して変わらない年齢なのに、卯一郎さんはもう音楽に、絶望しちゃったの? 「・・・いいねぇ~・・・青春って感じだねぇ~・・・」 山城さんがそう呟いた。もし、山城さんがからかう様な口調で言ったなら、僕は彼を許さなかっただろう。このロッジにいて欲しくないと追い出しただろうけど、山城さんは、心からしみじみとそう羨むように口から出たみたいだった。 「若いですから、青春真っただ中なのは否定しません。ただ、今は・・・僕も卯一郎さんも灰色な青春ですけど。でも、大丈夫。いつか、ちゃんとバラ色にしてみせますから」 バラ色の青春。そんな恥ずかしい言葉、僕の人生の中で言う日が来るとは思ってもなかった。でも、卯一郎さんに絶望な灰色は似合わない。この人は、きっと暗いトンネルを抜けて世界の表舞台に立つ人だ。僕はそう信じてる。確証はないのに、不思議とそう思うんだ。 「そうかよ・・・じゃあ、がんばんねーとな・・・」 山城さんが、またしみじみと言う。 頑張るよ。大丈夫。いろいろと絶望する事もあるけど、きっと大丈夫。そう思って進むんだ。僕らはまだやれる。

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