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第3話

昨夜は、よく眠れなかったが、顔には出ていないようだった。洗面台の鏡に映る自分を、蓮は確認した。いつも通り、変わらない姿の自分が映っている。  まだ、啓司の匂いが手に色濃く残っているような気がして、蓮は、体の奥が、どくん、と重苦しさ脈打つのを感じた。 (今から学校なんだから、考えないようにしないと)  昨日の夜。  部屋に戻ってから、興奮が収まらなくて、何度か自分を慰めてしまった。 (鷲尾くんに、惹かれてたのは間違いないけど……これで、変態扱いされるだろうな)  蓮自身、あんな、大胆な行動に出るとは思わなかった。出来れば話してみたい、とか、少しくらい興味を引きたいとは思ったが、まさか、あんなことが出来るとは思わなかった。なにせ、自分自身のことも、ああして慰めることは少ないからだ。 (でも、気持ちよくなってくれて良かった)  気持ち悪いと言われて、罵られるよりは良いだろう。途中、『他のやつにもしているのか』確認してきたところから推察すると、気持ちは良かったのだろうと信じている。 (僕のより、立派だった)  雄々しくて、張り詰めていて、カリの部分もはっきりと括れていて。固くて熱かった。  考えないように、考えないようにしていると、また、あれを思い出してしまう。  頬を軽く叩いて、蓮は口元に笑みを刻む。柔和な微笑みは、そのまま、蓮の鎧だ。  一つ大きく深呼吸をして、部屋から外へ出る。部屋から、ヨーロッパの華麗な宮殿のような、豪華な廊下を行く。今日も一日、誰かの望む通りの『鳩ヶ谷蓮』でいる。そこに、特別な感情はいらない。  食事の開始時間は決まっているので、周りには、同級生達の姿がちらほらと見えた。寝癖のまま、あくびをしながら行くものもいるし、本を片手に勉強しながら向かうものもいた。 「おはよう」  通り過ぎる生徒たちに、柔らかく挨拶を振りまいて、蓮は、食堂へ向かった。  食堂は、整然としている。決められた席に座り、朝食を待っていれば良いからだ。そして定刻通りに、食事は始まるはずだった。今日の朝食メニューは、食堂に張り出されているが、大して代わり映えはしない。トーストにヨーグルト、フルーツに、ソーセージかハム。そして、卵料理と決まっている。ぼんやりと朝食を待っていると、向かいの席に、啓司がやってきた。 「よお」  まさか、来るとは思わなかったので驚いたが、柔らかく注意することにした。 「おはよう、鷲尾くん。そこは、鴫原(しぎはら)くんの席だと思うけど?」  言外に席に戻れと言ったつもりだが、啓司には通じていなかったらしい。 「ああ、その、鴫原くんにお願いして、席を替わってもらったんだよ」  まわりの席の人達が、蓮と啓司のやり取りを、固唾を飲んで見守っているようだった。今まで接点がなかった二人だから、不自然なのだろう。 「鴫原くんに、迷惑じゃないのかな。勝手に席を変えられたら」 「勿論、鴫原くんには言ったよ。鳩ヶ谷にちょっと話がしたいってさ。快く譲ってくれたけど?」  話、といわれて少々、警戒した。まさか、こんな朝早くから、昨日の夜のことを持ち出しはしないだろうが、わからない。警戒しつつ、 「話?」  と聞いてみた。  啓司は、笑みを浮かべながら、「昨日の夜、部屋に来てくれただろ?」などと言う。  脇にいた、啓司の知り合いらしき人物が、「えっ!? 鳩ヶ谷が!? なんで?」と声を上げるものだから余計に視線を集めてしまう。困ったな、と思いつつ、蓮は作り笑いを浮かべる。興味津々な態度のこの男の名前は、たしか、鷹取(たかとり)と言ったか。蓮は、三年間、同じクラスでも会話もしたことがない人物だった。 「鷲尾くんの本を間違えてもって行っちゃったんだ。だから、返しにいっただけだよ」 「ちょっとくらいは話したけどな」  啓司が、小さく呟く。 「え、鳩ヶ谷と鷲尾って、なにか共通の話題とかあんの? 恋バナとか?」  身を乗りだして聞いてくる鷹取を、面倒だなとは思っていると、啓司がため息をつきながら言った。 「鷹取……お前、本当に恋バナの話ばっかだな。いい加減、ここが男子校だって諦めろよ」 「えー? だってさ、たまにいるみたいじゃん? カップル」 「それで、どうして僕と鷲尾くんが、恋バナなんかするかなあ。ただ……僕らは、意外に音楽の趣味が合うみたいだよ」 「えー? 鷲尾が、音楽なんか聞くかな?」 「鷲尾くんに返しに行った本がバイロンの詩集だったから……もしかして、リストを聞いたりするかって思って。それで話してみたら、意外に盛り上がったから」  啓司が、顔を歪めているのが、少し面白かった。クラッシックなど聞かないだろうと思っていたので、軽い、拒否のつもりだった。 「なんだよ、鷲尾」 「ペラペラ喋んなよ。俺は、鳩ヶ谷、お前と違って、そういうキャラじゃないんだって」 「そうかな?」 「そーだよ……チッ、お前さ、セルジオ・フィオレンティーノのCD持ってるって言ってただろ? 今日、貸してくれよ。聞いてみたい」  思わぬ名前が出てきて、蓮は焦る。このピアニストは、素晴らしいピアニストだったが、メジャーレーベルからのCDの発売がない。そして……急死した直後に出たCDは別人が録音した偽物だったということが解っている。実際、蓮はその『偽物』のCD自体は持っているが……。 (つまり……これは、嘘だっていうのを、解っていて、会話してるってこと……だよね) 「まあ、持ってることは持ってるけど……」 「また、俺の部屋に来る?」  視線が、かち合う。  意味ありげな眼差し、だった。 (もしかして……)  蓮の胸が、ドキっと跳ねる。昨日、したのを気に入ってくれて、また、していいということだろうか。もし、そうなら、是非、また、彼に触れたい。どう言えば伝わるだろう。誰にも分からない方法で。 「リムスキー・コルサコフは、どうですか? 一つおすすめがありますけど」 「あまり聞かないけど? ロシアのは大掛かりで疲れる印象」  言い得て妙な感想に、思わず蓮は笑ってしまう。 「そうですか? 僕は……バレエ音楽は結構好きです。ただ、バレエになると物語が変わってしまうのが残念で」 「そうなんだ」 「ええ、今、僕は……シェヘラザード姫の心境ですね。だけどバレエにはシェヘラザード姫はいなかったと思います。ちゃんと全幕みたことはないんですけど」  シェヘラザード姫。  気づくだろうか。 『アラビアン・ナイト』で、千の夜を残酷な王の寝所で物語した、賢き姫。  物語の続きを『明日の夜はもっと楽しい話です』と言って引き伸ばし、運命を変えた姫。  啓司を見ると、驚いて目を見開いている。 「そうだな、俺も……もう少し、鳩ヶ谷と音楽の話がしたいな」  かたわらで「うへー……、クラッシックは勘弁だわ……クラブなら誘って」と、鷹取が呻いて去っていく。  蓮と啓司の視線が絡む。視線が、離せない。 「クラスメイトと音楽の話とか、するの初めてなんだよ、俺」 「じゃあ、楽しい時間になると良いですね」  蓮の、言葉を聞いた啓司の顔が、少し赤くなった。

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