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第19話

 華麗なピアノの音が聞こえる。Nocturne for Piano, No. 8 in D flat Major。沢山存在する、ショパンの夜想曲の中でも『貴婦人』と呼ばれる、とりわけ優美な旋律だった。  音楽が好き。特にピアノが好きという話はいつの間にか広まっていたらしく、音楽教師に呼ばれて、その演奏を鑑賞している。全身黒ずくめで、長い髪を後ろに束ねるスタイルの、見た目が完全にヤクザの三下のような、この音楽教師は、時折、病院や附属の幼稚園で演奏することがあるらしい。それで演奏の仕上がり具合を見て欲しいと頼まれたのだった。  隣には、啓司もいる。そして、割り込んで入ってきた飛鳥井とその取り巻き、英語教師のルカもいて、音楽室はそれなりの観客数になっていた。 「先生は、暗くて陰気で、なんとなくショパンのイメージがないんだけど、演奏は、華麗で繊細なんだな」  五分半ほどの演奏が終わったとき、啓司が拍手しながら、ぽつりと呟く。 「そんな失礼なことを……」 「そうかな。俺は、華麗で繊細って言ったんだよ。……ところで桃花鳥先生、今度は、どこで演奏されるんですか?」  啓司の質問に、桃花鳥は「病院だよ。小児科」と小さく答える。  小児科……にはあまりにも似合わない風貌だ。 「可愛い音楽室があって、小さなアップライトと、クマさんとか、ゾウさんとか、ウサギさんの絵が貼ってあるよ」  きっと、明るくてポップな、パステルカラーの空間なのだろう。  そこへ、この『見た目が完全にヤクザ』という桃花鳥の姿は、あまりにも、ミスマッチだ。蓮は頭を抱えたくなってきた。 「子供さんが、歌えるような曲とかはどうですか? アニメとか、流行っているポップスとか、動画で流行ってるのとか」  蓮の意見に、桃花鳥がぽん、と手を叩く。 「それは良いかもしれない。いま流行してるのだと『パプリカ』とかかなあ」 「ちょっとっ! いつの話してんですか?」  それとも、違う『パプリカ』があるのだろうか。そうであって欲しい、と蓮は心から思う。あれは名曲だが、今更、その名前を聞くとは思わなかった。 「なー、蓮。『パプリカ』って、俺ら小学生じゃなかった?」 「えっ? あ、多分、そうかも……」  月日の流れは残酷なほどに速いのに、桃花鳥は、どうもマイペースに生きているようだ。 「そうなの? 今の子供達、解らないかなあ」  首を捻る桃花鳥に呆れた顔をしているのは、英語教師のルカだった。 「あなたは、一体、どうして、時間の流れから取り残されて……とりあえず、明日、私が楽譜を見繕ってきますから、それを弾いた方が良いと思います」  蓮と一緒の時、ルカの一人称は『僕』だったと思ったが、今は『私』だ。こちらの方が地のようだった。 「でも、ルカさん、どうやって楽譜を? ここは、森の中でしょ? 楽器屋さんがないから、僕は楽譜にも不自由しているんだけど」 「あなた……今は、主要なポップスでしたら、コンビニでネットプリント出力できますよ。流行のアニメの主題歌を数曲、それと、定番の子供向け楽曲、歌えそうな曲、クラッシックの中でも聴きやすい曲で行きましょう」 「ルカさんはいろいろ知ってて凄いよね」  心のそこから、桃花鳥は感心しているようだった。 「あなたが、ぼんやりしているだけですよっ! ……とりあえず、私は、そろそろお暇します。鳩ヶ谷くん、今日の英語のレッスンは、また後日」  シェイクスピアを原語で読んでみようという試みは、なぜかそのまま継続していた。  今後の将来の為にも英語力は必要だから、ありがたいことではあるのだが……。 「じゃあ僕もそろそろ」  帰ろうとしたところで「あっ、鳩ヶ谷くん。もうちょっと聞いていって貰えるかな」と桃花鳥に言われて、浮き掛けた腰を戻した。 「はい」 「じゃあ、俺ももうちょっと聞いて……」  聞いていく、とでも言おうとしたのだろうが、啓司は、不意に言を切った。スマートフォンに着信があったらしい。 「ゴメン……ああ、俺だけど」  そう言いながら、啓司は外へ出て行く。固い声だったのが気に掛かる。 「じゃあ、行くね~」  のんびりした声と共に、桃花鳥が奏で始めたのは、Sonate no.2 "Marche funebre" b-moll Op.35。通称『葬送行進曲』と呼ばれる楽曲だった。 (小児科のお子さんのところで弾くなら、絶対にダメなヤツだ……)  病院と『葬送』。  ある意味、親和性があるかも知れないが、それはあってはいけない親和性のはずだった。  ちらっと後ろを見ると、飛鳥井たちは、退屈そうにあくびをしていて、この楽曲の通称に気付いていないようだった。

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