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『夜とレモンティー』②
そう。
『夜とレモンティー』でデビューを飾り、そこから如月奏は10代の天才作曲家として世に名を轟かせるようになった。
響の頭の中に、『夜とレモンティー』が流れてくる。
ちょうど暗くなった夜道を歩いていると、道脇に自販機を見つけ、
あの映画もこんな感じで偶然立ち寄って買ったレモンティーが
その後彼女の記憶に残り続けるんだよなあ……などと思いを馳せる響。
その隣で、早苗が続きを語った。
「それから映画と共に有名になったそーちゃんは、音楽事務所に所属することになって
さらに本格的に作曲を学んで、仕事を与えられるようになっていった。
で、当時からマネージャーを付けてもらってたみたいなんだけど
みんな一年足らずで辞めて、どんどん交代していったのよね」
「あぁ……。なんか分か——いえ、どうしてですか?」
「そーちゃん、女が相手だとコミュニケーションをろくに取ろうとしないし
男が相手だと、指図を受けるのが嫌だって文句をつけてね。
そーちゃんが他人に介入されるのを嫌がるのよね」
「それで、幼馴染で仲の良い加納さんがマネージャーになった……?」
響が言うと、早苗は「そうなの!」と元気に頷いた。
「そーちゃん、私にだけは小さい頃から心を開いてくれていたから。
私が短大を卒業する時に、そーちゃんの事務所の面接を受けたんだ。
だからそーちゃんのマネージャーになってからは4年目の付き合いかな」
嬉しそうに話す早苗を見た響は、彼女にとって奏が特別な存在なのだと理解した。
恋愛感情なのかは分からない。
幼馴染として、姉と弟のような関係として、仕事仲間として。
そのどれかをはっきり見定めることは未だできないが、
彼女にとっては奏という存在が人生の一部なのだろう——と思った。
それからコンビニで酒やつまみを買い込み、談笑しながら如月邸に戻って来た。
ピアノの部屋のドアが開いているので中を覗くと、
奏は未だ一心不乱に鉛筆を動かし続けていた。
きっと、俺たちが外出していたことにも気付いてないだろうし、
こうして視線を向けていることにも気付かないだろうな——
とんでもない集中力だ……
「さて、それじゃ乾杯!
家政婦とマネージャー、それぞれの立場からそーちゃんを支えていくために頑張ろー!」
早苗の明るい音頭と共にレモンサワーを流し込む。
この時代に発売されていた、令和にはもう見かけないパッケージのサワー。
『夜とレモンティー』の話をした後だからか、無性にレモンサワーに惹かれてしまった。
「うま……」
響がそう呟き、二口目を飲んでいると
不意に早苗が響の顔を覗き込んできた。
「っ、何ですか?」
「君——モテるでしょ」
唐突な言葉に、響が驚いて目を丸めると
早苗は度数の高い酒を流し込んで言った。
「イケメンだからさ。彼女とか居ないの?」
「居ません」
「そっか。まあ、そうだよね。
彼女が居たら、住み込みで働く仕事なんて選ばないものね!
……でも、よくそーちゃんが他人との同居なんて許可したなー。
電話口で聞いた時、私びっくりしちゃった」
「はは……」
経緯を話せない以上、適当に愛想笑いを浮かべることしかできない響は
話題を逸らそうと思い、早苗に尋ねた。
「そういう加納さんはどうなんですか?
美人だし、彼氏さんいるんじゃないですか?」
すると早苗は、どこかアンニュイな笑みを浮かべて言った。
「……何人か、付き合ってはきたけれど……。
結局、そーちゃんと比べちゃうんだよね。
そーちゃんみたいな圧倒的な才能を持ってる人が身近にいるとね……、
言葉を選ばずに言えば、その辺の男がつまらない人間に見えてしまうのよねえ」
なるほど。
確かに奏さんほど作曲家としての才能に溢れた存在が幼馴染だったら、
彼以上に特別な人間というのはなかなかお目にかかれないだろう。
でも、音楽の才能だけで言えばそうかもしれないけれど、
何も付き合う相手にまでそんな並外れた芸術的才能を求めることはないのに——
響がそう考えていると、早苗が続けて口を開いた。
「……私、共通の趣味が多いなと思う人と付き合うことがよくあったんだけど。
同じ音楽のジャンルが好きな人とか。
一緒にCDを聴いたり、コンサートに行けたら楽しいじゃない?
……でもね、同じ音楽を好きな人より、
私の好きな音楽を生み出せる人の方が
何倍も魅力的だと思っちゃうのよね……。
——あなたもそうでしょ?」
「えっ!?」
それは、俺が奏さんに対して魅力を感じるだろうと聞かれているのか?
そりゃ、作曲家としては魅力的だとは思うけれど、それ以外の感情はない。
「あなただって、如月奏の音楽を愛してなかったら、
『あの』そーちゃんのお世話をしようだなんて思わないでしょ?」
「!ああ……そう、ですね」
そういう意味か。
「俺も如月奏の音楽のファンです。
だから俺の目の前で、バニラアイスの曲を弾いてくれた時は本当に嬉しくて感動しました——」
「バニラアイス?」
「えーと。俺の好きなものをお題にした音楽を即興で演奏してみせるって言われて、
それで俺が『バニラアイス』と答えたので、
それをテーマにした曲を作ってくれたんです」
「……へえー。あの子、そんなサービス精神があったのね……」
サービス精神というか……。
俺が奏さんのこと、本物の如月奏なのかなんて疑ってしまったから
本人も自分自身を証明するために、嫌々やってくれたパフォーマンスだろうなあ……。
「まあ、普段の作曲のスタイルも
頭にパッと浮かんだものをほとんど修正なく仕上げちゃうから
即興音楽ばかり作ってるようなものだけど——あっ」
早苗が言いかけた時、リビングのドアががちゃりと開いた。
「お腹空いた……」
「そーちゃん!」
「曲、完成したんですか?」
二人の問い掛けに答えず、奏はリビングにひいてあるラグの上に寝そべった。
「……お腹、空いた」
「机の上におつまみがありますよ」
「いらない」
「え?お腹空いてるんですよね?」
「おつまみはいらない。出来立てのご飯が食べたい」
「あぁ……なるほど。じゃあ冷蔵庫にあるもので何か作りますね」
「うん」
奏は頷いた後、そのまま寝息を立て始めてしまった。
——元の時代では自分の倍近く歳上の人だったけれど、ここでは俺の方が歳上だ。
そのせいもあってか、如月奏の言動が幼く感じてしまう。
俺がハタチの頃——三年前は、こんなに幼稚だったっけ?
響がもやもやと考えながらキッチンに立っていると、
早苗がキッチンカウンターの対面に立ち、瓶に入ったビールを飲みながら響を眺めてきた。
「……早苗さんもお腹空いたんですか?」
「ううん。何作るのかなーと思って」
「夜遅いんで、消化に良さそうなものがいいかなと……」
「ふうん。料理できる男子って珍しいね」
珍しいか?
一人暮らしの社会人なら、作れる男性は多いと思うけど……
まあ、23年前の時代だもんな。
今とは少し価値観が違っててもおかしくないか。
響は炊飯器に残っていたご飯にトマト缶とコンソメ、それから冷蔵庫の適当な食材を入れてリゾットを作った。
「奏さん、出来ましたよ」
リビングに戻ると、まだラグの上で眠っている奏をゆすった。
「ん……」
奏は目を覚まし、机の上に置かれたリゾットを一瞥して言った。
「トマト嫌い」
「えっ!?……でも、キッチンにあったトマト缶、俺が住み始めた時からあったし……
奏さんが自分で買ったんじゃなかったんですか?」
「マネージャーが置いてった」
「そーそ、私が買い出しした時のやつ。
自分でトマトパスタ作って食べようと思って買ったんだけど、結局作らなかったのよね」
後から着いてきた早苗が言った。
「加納さん。奏さんがトマトは嫌いって言ってるんですけど」
「うん、昔から苦手」
「……俺がトマト缶出した時に、一言言ってくださっても良かったのに」
「そーちゃんがトマト嫌いを克服するチャンスかもと思ったから」
「はあ……」
早苗は奏の隣に座って言った。
「ホラ、きっとお腹減ってる今なら何だって美味しく食べられるわよ?」
「んー……」
「せっかくサツキくんが作ってくれたんだから、一口くらい食べてみたら?」
「……」
奏はどんよりとした表情をしていた。
何時間も集中して曲を書き上げ、ようやく仕事が終わって腹を空かせている時に
自分の苦手なものを出されたことが気に入らないのだろう。
「嫌なら作り直しますよ」
響は内心不服に思いながらも、そう言って皿を取り上げようとした。
するとその手を奏が掴んで言った。
「……チーズ」
「え?」
「チーズをかけたら、食べれる……かも」
響はキッチンに戻ると、冷蔵庫の中を確認した。
……チーズ、ある。しかも結構色々な種類のが。
響がこの時代の如月邸に来た初日にも、空っぽに近い冷蔵庫の中に
チーズだけは何種類も保存されていたことを思い出した。
そうだ、あの時もなけなしの調味料とチーズを使って料理したんだっけ。
スライスチーズをカリカリに焼いて蜂蜜をかけたやつ、
あれが確か、特に奏さんの食い付き良かったんだよな……。
響はそんなことを思い出しつつ、トマトリゾットを温め直し
熱のあるうちにチェダー、モッツァレラを乗せ、ダメ押しに粉チーズもたっぷりかけて
もはやトマトの赤い部分が全く見えないほどにこれでもかとチーズまみれにした。
はぁ。こんだけ乗せたら文句ないだろ。
夜中に食べる料理じゃなくなったけど。
響が再びリビングに戻って来ると、奏はおつまみの柿ピーに手を出していた。
え!今リゾット作り直してたのに!
おつまみなんか食べたくないって言ってたのに!!
響はムッとした気持ちが沸き、皿をやや荒々しく机に置いた。
「一応、こっちも作り直したんでどうぞ」
すると奏は柿ピーを食べる手を止めた。
チーズで一面雪原のようになったリゾットを見て、スプーンですくうと、恐る恐る口に運んだ。
「……!」
何も感想は言わなかった。
だが、再びスプーンをリゾットに刺して二口目を運んだ。
無心でリゾットを食べていくのを見た早苗は、感動したように目を潤ませている。
「そーちゃんが……、そーちゃんがトマト食べてる……!凄いっ……」
まるで息子が好き嫌いを克服したことに感涙する母親のようだった。
その光景がなんだかおかしかった響は、思わず「ははっ」と声に出して笑った。
すると奏がスプーンを持つ手を止め、不思議そうに顔を上げた。
「……何か面白かった?」
「え?——あっ、いや、すみません!」
「サツキって笑うこともあるんだね」
「え!?……」
そういえば、ここに来てから笑ったことって無かったかもしれない。
これからの生活への不安もあったし、意思疎通を図るのが難しい相手との二人暮らし——
笑う瞬間が一度たりともなかった。
「そういえば俺、今……ちょっと嬉しかったです」
「嬉しかった?」
「奏さんが、俺のトマトリゾット食べてくれて」
「……へえ」
奏は真顔のままトマトリゾット——もはやチーズリゾットに近いそれを食べ終えると、
不意に立ち上がり、ピアノの部屋に向かった。
突然どうしたのかと、響と早苗がついて行くと、奏は徐に椅子に腰掛け、ピアノを弾き始めた。
それは初めて聴く音楽だった。
雨宮アゲハの歌は、響も知っていた。
如月奏が歌手に楽曲を提供した初めての作品で、
その歌で人気を博した雨宮アゲハは、響が生まれた後の時代にも活躍し続けるタレントとなったのだ。
だがこの曲は、その雨宮アゲハに書き下ろしたものとは違っていた。
軽快で楽しく、踊り出したくなるような音楽。
「——素敵な曲。
でも、これが雨宮アゲハをイメージした曲?
なんかちょっと、彼女のイメージには合わないような」
隣で聞いていた早苗が、奏には聞こえない声で呟いた。
違う。これは——
「もしかしたら、トマトリゾットの曲かも」
響が言うと、早苗はくすりと笑って
「バニラアイスに続いて、食べ物シリーズ第二弾ってわけ」
と言った。
暫くの間、ピアノから奏でられる明るいメロディーを堪能した響は、ピアノを弾き終えた奏に尋ねた。
「今のは『トマトリゾットの曲』ですか?」
「……」
奏は無言で首を横に振った。
「違うんですか?じゃあ……『チーズリゾットの曲』?」
すると奏はそれも違うと首を横に振った。
「じゃ……今の即興音楽は何がテーマだったんですか?」
響が正解を訊こうとすると、奏はふぅと息を吐いた。
そして響の問いかけを無視して立ち上がると、譜面台に置いてあった手書きの楽譜を早苗に渡した。
「これ、社長に渡してくれる?」
「OK。私が責任を持って渡すわ。
——その前に、どんな曲かちょっと弾いて確かめさせて」
早苗は楽譜を譜面台に広げ直した。
「そーちゃんの作曲にハズレがないのは知ってるけど、一応ね?
雨宮アゲハのイメージに合ってるか確認したいから」
そう言い、早苗は椅子に座って自分でピアノを弾いてみようとした。
だが楽譜を見た途端、「——あらっ?」と声を出した。
「どうかしましたか?」
近くに立っていた響が尋ねると、早苗は苦笑いを浮かべた。
「……飲み過ぎちゃったみたい。
目が回って楽譜が読めないわ……」
先程までに瓶ビール、ワイン、日本酒とひと通り飲んでいたのだから仕方がない。
響は早苗同様、苦笑いを浮かべた。
「なんなら俺が代わりましょうか?
俺、チューハイ一本しか空けてないので」
「えっ、嘘!?サツキくんもピアノ弾けるんだ!」
「はい。ピアニストを目指していた時期があったので」
響はそう言って早苗と椅子を交代すると、楽譜にざっと目を通した。
雨宮アゲハの歌は、このあと編曲者によってギターやベースなど様々な楽器での演奏に変化する。
装飾音や、他者のアレンジが未だ入っていない
如月奏による完全オリジナルの音楽を最初に自分が聴き、演奏できるのだと思うと胸が騒ぎ、熱くなる。
響が少しだけ緊張しながら鍵盤に指を置くと、何度も聴いたことのある、それでいて新鮮にも感じるメロディーが部屋に広がった。
癒し系が売りの雨宮アゲハに似合う、しっとりとした雰囲気に始まり、
途中からは、パワフルな声量を持つ彼女の魅力を引き出せる劇的な構成。
従来の男性ファンだけでなく、女性の新規ファンも増えそうな、
ハンサムなギャップを生み出す曲調は、まさに雨宮アゲハのために『似合わせた』ものだった。
雨宮アゲハの顔も声も、つい先ほど宣材写真とサンプル音源で知ったばかりだというのに
彼女の良さを引き出す音楽を作れる如月奏は
まさに天才と言っても過言ではなかった。
——曲を弾き終わると、早苗が大きな拍手を送った。
「素敵……!まさに雨宮アゲハを体現したって感じの曲だったわ!
演奏してるサツキくんもとっても上手で、私感動しちゃった……」
その後、演奏を聴いてすっかり酔いを醒ますことが出来たという彼女は、
タクシーを捕まえて事務所へと向かった。
酒を飲み過ぎたので寝坊するのが怖い、事務所で社長の出勤を待って
渡したら早上がりして自宅で寝るつもりだ——早苗はそう話した。
「マネージャーも帰ったし、仕事終わったし、寝る」
早苗がタクシーに乗るのを見届けた後、奏があくびをして言った。
俺も、部屋を片付けたら寝よう。
響は、奏が寝室のある二階へ上がって行った後、リビングに散らかっている酒瓶や、キッチンの洗い物を済ませた。
奏の寝室は二階だが、居候の響は一階にある書庫を間借りしている。
音楽に関する本や楽譜などをしまっておくための小さな部屋に敷布団を敷かせてもらっていた。
響は布団に入ろうとしたところで、
——そういえばピアノの蓋は閉めたっけ?
と思い直した。
白いグランドピアノの部屋に戻って来ると、案の定蓋が開いたままになっていたため、鍵盤の上にカバーを乗せた後、蓋を閉じた。
その時、ピアノの上に一枚譜面が乗っていることに気がつく。
あれ!?雨宮アゲハの曲、さっき加納さんに渡したよな。
一枚だけ渡し忘れた……!?
響は顔を青ざめ、慌てて譜面を手に取った。
すると、そこには雨宮アゲハ用に書き下ろした曲とは異なるタイトルが書き込まれていた。
『サツキが笑う』
「……えっ?」
思わず瞬きをし、タイトルの下にある手書きの譜面に目をやる。
それは先ほど奏自身が演奏していた、即興のメロディーだった。
トマトリゾットの曲でも、チーズリゾットの曲でもないと、奏は首を振っていた。
結局タイトルを教えてくれなかった例の曲を
奏は弾いた後で、メロディーラインを忘れないよう五線紙にメモを残していたらしい。
そのタイトルが『サツキが笑う』。
もしかして、リゾットを勢いよく食べてくれた奏さんを見て笑った俺を
奏さんが見て、この曲が浮かんできたってことだろうか。
じゃあ、さっきの軽快で明るくて、聴いているだけで楽しい気持ちになれたあれは——
「……俺が笑った曲……?」
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