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『夜とレモンティー』③
それから一週間後——
「サツキ。付き合って」
書庫で寝ていた響は耳元で声を掛けられ、驚いて飛び起きた。
「なっ!?な……?」
「サツキ、付き合って」
もう一度言われ、響は寝ぼけ眼のまま
「付き合うって……?」
と返した。
すると奏は、まだ状況を理解できていない響の肩にカーディガンを羽織らせた。
「行くよ」
「どこに?」
「外」
「外ォ……?」
訳の分からないまま、しかし屋敷の主人に逆らうことはできず、
響はパジャマの上にカーディガンという格好のまま、しぶしぶ外に出た。
まだ日が登り始めて間もない朝靄の中を、男二人連れ立って歩く。
時折ランニングや犬の散歩をしている人とすれ違う。
彼らは目的を持って外にいるが、自分たちは何のために今歩いているのだろう?という気持ちになった響は、無言で歩を進める奏に話しかけた。
「奏さん。俺たち、どこに向かって歩いてるんですか?」
「河川敷」
「……どうして?」
「曲を作るため」
そこでようやく、奏は話し始めた。
先日、雨宮アゲハのために書いた曲に感動した社長が
また新たな仕事の依頼を頼んできたらしい。
本当は連続して仕事を振ることに不安を感じていたらしいのだが、
早苗のお陰で納期を守ることができたため、
『奏には優秀なマネージャーが付いているから大丈夫』という社長の判断で
すぐにまた依頼が飛んできたのだという。
今回は『水』をテーマにした曲を作るらしい。
新しく始まるテレビ番組のテーマ曲ということで、
海や川、湖、雨などの『水』にまつわる神秘、科学、生き物などを紹介していくという。
「水……それはまた抽象度の高い……。
せめて海なら海とか、もっと狭い範囲であればイメージが浮かびそうなものですけどね」
そう言いつつ、響はもちろん、この曲も知っている。
奏の作ったテーマが幻想的で視聴者の印象に残るような旋律だと話題になり、後の長寿番組となるのだ。
「うん。俺も、今回はイメージの幅が広過ぎて、即興で作るのは難しかった。
お風呂場で、ずっと水を流しながら考えたりもしたけどダメだった」
「!——そうだ、思い出した!!
一昨日、お風呂の蛇口から水が出っ放しになってましたよね!?
あれ、俺が止め忘れたのかと思ってましたが奏さんが犯人だったんですね!?」
「サツキが止め忘れたんじゃない?」
「いや絶対奏さんですよ!
俺、資源の無駄遣いが気になる性格なんで、そういうミスは滅多にしないですもん」
「たまにはするんでしょ?じゃあサツキだよ」
「嘘だァ……!」
蛇口を止め忘れたのはどちらかを言い合っているうちに、二人は河川敷に着いていた。
「この話はサツキが犯人ってことで終わりね」
「だから俺じゃないですって——」
響の言葉を無視し、奏は河川敷へ降りて行くための土手に造られた階段を降りて行った。
「待っ——」
慌てて響が着いて行くと、奏は川岸ぎりぎりのところで座り込んだ。
コンクリートで整備されているため土の上ではないが、
パジャマを汚してしまうと思って響が隣に立っていると、「座れば?」と奏が促して来た。
「でもこのパジャマは奏さんに借りているものですし、汚すわけには……」
「貸してる本人が良いって言ってるんだから、気にせず座りなよ」
「いいんですか……?」
「それに洗濯するのはサツキだし」
「!」
「とにかく、暫くこうしてるつもりだから。立ちっぱなしはしんどいと思うけど?」
奏の言葉を受けて、響はそろそろと座り込むと
「暫くって、どのくらいいるつもりですか?」
と尋ねた。
「夕方くらいまでかな」
「夕方!?」
響は思わず叫んだ。
「いやっ、でも俺らこんな格好で来ちゃったし……。
今は未だ早朝だからいいですけど、日中もこの服装で外にいるのは……」
「日中だとどうなるの?」
「人の目が気になるというか」
「俺は気にならないけど」
「俺は気にします!!」
響が言うと、奏はふと自分の着ているパジャマを見下ろした。
「……そっか」
ぽつりと呟くと、奏は立ち上がり
「じゃ、着替えて来よう」
と響に提案した。
「えっ?……いや、でも……」
「何?」
「ここまで結構距離あったし……
どうせならもう少し居てもいいんじゃないですか?
それで早めに引き上げるのでもいいかなって」
「人の目が気になるんじゃなかったの?」
「や……、まあ……」
せっかく時間をかけて歩いて来たのに、俺の一言のせいで戻らせてしまうのも申し訳ないしな……
「奏さんが気にならないっていうなら……俺も気にしないことにします」
「そう」
奏は座り直すと、川面を眺め始めた。
響もぼんやりと水の流れを見つめているうちに、だんだんと
あ、あそこに何度も気泡ができてるな、だとか
桜の花びらが流れて行ってるな、だとか色んなものに目が行くようになった。
一方通行に進んで行く水の塊が、毎秒異なる形を作っては消えていく。
未だ人も少ないため、水の動く音もはっきりと耳の奥で振動している。
春の朝の心地良い天気も相まって、眠くはないのに眠っている時のようなまどろみを感じ、幸せな気持ちになる。
ふと、響が隣を見ると、すぐそばに奏の横顔があった。
綺麗に通った鼻筋、長いまつ毛、薄くてしっかりとしたリップラインの唇。それから直線的で無駄のない顎のライン。
本当に整った顔をしているが、その顔に生気を感じないのは血色が悪いせいだろうか。
青白い肌が朝靄の中にぼやけ、奏と景色の境目を曖昧にさせている。
まるで生きていない人間がそばにいるようだ——
思わずそんなことを思ってしまうのは、彼の容姿だけが原因ではないだろう。
じっと瞼を動かすことなく、無心に川を見つめ続ける奏は人形のように無機質で、そして人間離れした美しさを醸し出していた。
「——良いなぁ」
思わず響が呟くと、奏はようやく我に返ったように目を瞬かせた。
「……何が?」
「いや……。奏さんって、世の皆が求めるものを全部持ってる気がして。
外見も整ってて、若くして豪邸に住める財力があって、なんと言っても誰も真似できない音楽の才能があって」
「音楽の才能って、世の皆が求めてるの?」
「少なくとも俺は……喉から手が出るほど欲しいですよ。
俺なんかじゃ、作曲家になることはできないから」
響が言うと、奏は不思議そうに口を開いた。
「俺、サツキが俺の家に現れた日に弾いてた曲、良いと思ったよ」
「!あれは——」
響は生唾を飲み込んだ。
「……あれは、如月奏の音楽をオマージュして作った曲です。
如月奏を尊敬する一人間が、如月奏の楽曲ありきで作ったものに過ぎません……。
それを如月奏本人から褒めて頂けるのは、嬉しい気持ちもあるんですが、なんか複雑で——」
すると、少し間を置いて奏が口を開いた。
「……あんたさ。
鍵をかけていた家の中で、俺がピアノの部屋を離れたほんのわずかな間に現れたんだよ。
あの時は、俺も驚いたしあんたも混乱してる様子だったから——
もっと落ち着いてから、あんたについて聞きたいと思ってた」
「……」
「あんたは何者なの?
あの日、あの場所に急に現れた理由——そろそろ話してくれる?」
響は、今ならば冷静に話ができると思い、初日の混乱の中で話せなかったことを全て打ち明ける覚悟を持った。
自分がどうやらタイムスリップしたらしいことと——
23年後の世界で如月奏が辿る運命についてを。
「——俺は23年後に、死んでしまうんだね」
「黙っていてごめんなさい」
響は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「そもそもタイムスリップの話を信じてもらえると思えなくて……
自分の身に起きたことをあるがままに話すことで信じて頂きたいって思ったんですけど、
まずどうして俺が奏さんの家にいたのかの経緯を説明するには、奏さんの死についてを話さなければならなかった——。
本当に……ごめんなさい」
頭を下げたまま謝ると、奏は静かに言った。
「座りなよ」
「……っ、はい……」
言われるままに、響がゆっくり腰を下ろすと、奏は薄い唇を開き、小さく息を吐き出した。
「……俺が死ぬ話を俺にしたことは、別に良いよ。
どうせ23年も経ったら、今聞いた話も忘れてると思う」
「そ、そうですか……!?
俺だったら、その時が近づくにつれて怖くなって、余計に忘れられなくなりそうです。
話してしまった俺が言うのも何ですが、自分がいつ死ぬかを知ってしまったら
これから先、死に向かって生きていくような感覚になるだろうなって——」
「人は死ぬよ。俺も、あんたも」
奏は落ち着いた声で言うと、もう一度繰り返した。
「大丈夫。多分10年もしないうちに、今日聞いた話は全部忘れてる」
「……どうしてそんなことが言えるんですか?」
「俺、中学生以前のことは何も覚えてないから」
「え……!?」
「中学に入るより昔のことを覚えてない俺が、人伝に聞いた話なんて23年先まで覚えてる訳ないし」
「……本当に何も覚えてないんですか……?」
「うん」
奏は頷くと、再び川を見つめ始めた。
昔の記憶がない——
初めて聞かされる話が気になった響は、
「もし不快な思いをされたら言って欲しいんですけど」
と前置きをして尋ねた。
「中学生以前の記憶を無くした原因って、何か心当たりとかないんですか?」
「ないよ。あったら記憶を無くしたとは言わないでしょ」
「そ、そうですよね……!
じゃあ加納さんが幼馴染だってことも覚えてないんですか?」
「うん。気付いたら知り合いだった感じ。
俺とマネージャーが昔から親しかったことは、マネージャーから聞いたから知ってる。
でも俺が記憶を無くした原因は、マネージャーも知らないって言う」
「そうなんですか。あんなに親しそうな間柄なのに……」
「——本当は知ってるのかもしれないけど、俺に話さないってことは、それなりの理由があるのかも。
まあ、どっちにしてもマネージャーが話さないなら、昔の俺について他に聞ける相手はいない」
「……奏さんが現時点で昔の記憶を思い出せなくても、今こうしている現在のことまで、未来で忘れてしまうとは限らないんじゃ?」
「でも、絶対覚えてるとも言えないでしょ。
っていうか、多分忘れるよ。
音楽以外のこと、自身のことも含めて、あんまり興味ないから」
「……そう、ですか……」
そうか……。
じゃあ、俺が住み込みで手伝いをしてることも、いつか奏さんは忘れてしまうのか。
——俺が元の時代に戻る手立てができて、戻れたら……の話だけど。
「俺の話はこれ以上掘り下げても出てこないよ。
それより、さ——」
奏は視線を響に向けた。
「あんたが俺のファンって話、本当だったんだ」
「えっ?ああ……まあ、はい」
「だから、俺の家に居候してる訳ね」
「いや、それはその通りなんですけど!
俺だって元の時代に帰れる方法が分かればとっくに帰ってますよ!」
「その時代にはもう、俺はいないのに?」
「っそれは——それは事実として受け止めるしかないというか……受け止めてますよ」
「ふうん」
奏は素っ気なく返すと、再び川面に視線を戻してしまった。
あ……なんか、不機嫌になった?
空気からなんとなく察した響だったが、それ以上に会話の話題を見つけることができず、暫く黙りこんでいた。
——するとしばらくして、奏が言った。
「日も高くなって来たし、帰ろ」
「あれ?夕方まで居なくて良いんですか?」
「うん」
「夕方どころか、まだお昼でもないと思いますけど」
「いいから、帰ろ」
「はあ……」
お腹が空いたんだろうか。
きっとそうだろうと思いながら、響は奏の半歩後ろを着いて行った。
来た道を戻りながら、奏はふと独り言のように呟いた。
「……響がいると、普通の感覚が掴める」
響はそれを聞き逃さず尋ねた。
「普通の感覚、って?」
「パジャマで、日中外にいると人目が気になる——そういう感覚」
「……なんだか、すみません」
「何が?」
「俺の感覚に、奏さんの感覚まで嵌め込もうとしてしまってる感じがして……。
奏さんからすれば、俺って口煩いですよね?
だから一緒に暮らしていることで、俺が奏さんへストレスを与えてきたんじゃないかなと思って……」
「ストレス?そんなの受けてないけど」
奏は前を歩きながら、首を横に振った。
「俺はマネージャーから言わせれば、『音楽以外に無頓着過ぎる』らしい。
だから近くで『音楽以外にも気を配れる人』を見られるのは、生きる上で参考になる」
「生きる参考に……って。
別に、奏さんは音楽一本で生きていけるだけの才能があるんですから、
俺みたいな凡人の感覚を真似しなくたっていいんじゃないですか」
すると奏は、不思議そうに首を捻ってみせた。
「そう?俺は——自分が他人と同じ感覚を共有できないことが、悩みだけど」
「悩んでる……?本当ですか?」
響は思わず懐疑的な視線を向けてしまった。
悩んでいる割には、自由にのびのびと暮らしてる気がするけど。
俺のことも、鼻で使ってるし。
「ほんとだよ。
……こうして悩んでることも、他の人から見れば『悩んでいるようには見えない』らしいから。
他人の感覚が理解できないし、他人も俺の感覚を理解できない。
人間として生まれたからには人間社会で生きていかなきゃならないのに、
自分以外の人間の考えていることが分からないのは、しんどいよ」
そうだったんだ……
「それじゃあ、奏さんは俺と反対ですね。
俺はどちらかというと、他人の機微が気になり過ぎてしまうくらいなんで。
例えば皆でわいわい盛り上がっている時、一人だけ楽しくなさそうな人がいたら声をかけに行くし、
電車に乗っている時、自分の体調が悪い時でも近くに高齢の方や妊婦さんがいたら、きっと彼らも辛い思いをしているだろうなって胸が痛くなって、席を譲ったり。
家族や友達と旅行に行く時も、誰かが忘れ物をした時に貸してあげられるよう、何でも多めに持ってくし。
——他の人が困っていたり、悩んでいたりするのにすぐ気が付き過ぎてしまうんです。
それで自分も相手も幸せになれるならいいんですけど……
自分で気を利かせておきながら、たまにしんどいと思ってしまうことがあります」
響がそう話すと、奏は暫くして
「それ、嘘でしょ」
と返した。
「えっ!?なんで嘘をつく必要があるんですか!」
「だってサツキ、俺が悩んでることに気付いてなかったでしょ」
「!!……奏さんは特別分かりにくいんですよ……」
「じゃあ、俺とサツキは相性が悪いってことだ」
「ッ——そうかもしれませんね」
——そうだ。
一緒に住み始めてから、振り回されているのはいつも俺の方。
好き放題言って、予想外な行動をとって、何を考えているのかさっぱり理解できない。
いわゆる変人ってこう言う人のことだ。
ある程度常識的な感覚を持ってる俺では、変人の頭の中は到底理解できない。
……そう思っていたはずだった。
けれど、今まで無駄な会話をあまりしてこなかった奏さんが自分の身の上話をしてくれて、
自分の悩みを俺に打ち明けてくれた——
きっと彼なりに、同居人である俺と心を通わせようとしてくれているのに
俺の方が「この人は理解できない」と関係に蓋をしてしまっていいのだろうか?
この人はワガママだけど、悪意のある人ではない。
俺を傷つけたり、陥れようとしているんじゃない。
ただ自分の欲求に素直に行動し、言葉にしているだけなんだ。
俺が見方を変えれば、もっとこの人のことを理解できるようになるのかもしれない。
それに——理解してあげたい、とも思う。
天才作曲家の頭の中がどうなっているのか知りたいと言う欲もある。
それに、俺を住まわせてくれているのは
紛れもなく奏さんの親切心から来るものだ。
奏さんの優しさの根源がどこにあるのかを俺は知りたい。
もっと心を通わせてみたい——
「相性は悪いかもしれませんが……っ」
響は前を歩いている奏を追い抜くと、向かい合って言った。
「でも俺、人間関係って互いが努力して理解し合って、擦り合わせていくことで構築できるものだとも思います。
だから相性の良し悪しで、構築の可能性を切り捨てるのは勿体無いと思うんです。
それに、俺は——あなたとの人間関係を築いていきたい。
あなたを理解したいし、擦り合わせていく努力もしたいと思っている。
だから……その……、これからもよろしくお願いします……」
よろしくお願いします?
何でこんな結びになってしまったのだろう?
響は頭の中が混乱し、思わず照れ笑いを浮かべて誤魔化してみせた。
だから、俺と友達になってください——というのは、何か違う気がした。
かといって、同居人としてこれからも仲良くよろしく、という意味で言ったのでもなかった。
何が『よろしく』なのか分からなかったが、それを聞いた奏は、少しだけ唇の端を上げてみせた。
「うん。よろしく」
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