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『君に逢いたくて』①

「サツキ。今日は帰り遅くなるから、ご飯いらない」 それから暫くが経ったある日、昼過ぎに起きて来た奏が 昼食の支度をしていた響に言った。 「仕事ですか?」 「事務所の偉い人が、偉い人を紹介するから飲もうって言ってる」 「すごいざっくりしてるけど、大体把握しました」 そうだよな…… 奏さんは売れっ子作曲家だ。 タレントに楽曲提供もするくらいだし、色んな付き合いがあるんだろうな。 「でも、珍しいですね。 奏さんってそういう付き合いが嫌いなんだとばかり思ってました」 「なんで?」 奏は、響が用意していたオムライスの卵焼きの部分だけベロッと剥がすと、豪快な摘み食いをしてみせた。 「あっ。卵だけ……!」 「もう一枚焼けばいいじゃん」 「卵、使い切っちゃったんですよ」 「ふーん。じゃ、こっちの卵焼き乗ってない方がサツキの分ね」 「こっちって!今奏さんが摘み食いした方を押し付けるんですか!?」 「ケチャップご飯って、要はトマトご飯みたいなものでしょ。 卵が乗ってれば舌を騙せるけど、乗ってなければただのトマトご飯だもの」 「それはあなたが摘み食いしたからこーなったんですよ!」 「それはいいから。なんで俺がそういう付き合いを嫌いだと思ったの?」 摘み食いをしたことをまるで反省していない様子の奏が尋ねた。 「だって……。お偉いさんとの飲み会なんて、何かと気を遣って疲れるものでしょう? お酒の席ではいつもより皆お喋りになるだろうから、その分奏さんも喋らなきゃいけなくなるだろうし」 「そんなことはない。 俺は人の気持ちがわからないから気をつかうことはしないし、 皆がお喋りになっても、俺の気分が乗らない時は喋らなければいいだけ」 「……そうだった。 奏さんはどんな時でもマイペースだから、気疲れするということを知らないんだった」 「そういう意味ではむしろ、飲み会で疲れるのはサツキみたいな人なんだろうね」 「う……。否めない……」 そうだ。 大学時代も、会社勤めをしていた時も その日の飲み会に誰が来るのかを予め把握して、 お酒が弱い人はいるかとか、この人と話す時はこんな話題を用意しようとか 始まる前から気を回しすぎてぐったりしていたっけ。 奏さんからずばり言い当てられて、なんだか悔しい気持ちになる。 響がそんなことを考えている間にも 卵が乗っている方のオムライスを平らげた奏は、 空になった皿をシンクに置いて言った。 「とにかくそういうことだから。 夜ご飯は自分で作って食べてね」 「いや、毎日自分で作ってますけど?」 ——遅いなあ。 それから夕方になり、夜になり—— 日付が変わった後も、奏は帰ってこなかった。 終電がなくなったところで、金を稼いでいる奏ならばタクシーで帰って来れるだろうとは思っていたが、 それにしても深夜二時を過ぎても帰らない奏に響はやきもきしていた。 奏さんって、この時代じゃまだハタチなんだよな。 飲み慣れないお酒を飲んで、帰れないほど酔っ払ってしまっていたり……? いや、でもお偉いさんが一緒なら 奏さんよりずっと大人であろうその人たちが 責任を持って帰してくれるんじゃないだろうか。 でも待てよ? そのお偉いさんたちまで潰れてしまっていたとしたらどーする!? 俺が迎えに行くべきか? いや、でもどこで飲むのか聞かなかったな。 そうだ!マネージャーの加納さんなら知ってるかも! なんなら一緒に飲んでるかも!! そう思い立った時、時刻はすでに深夜三時を指していた。 だが、奏が帰らないことを心配していた響は 現在の時刻を忘れて早苗に電話をかけていた。 電話番号は、置き型電話の横のメモ帳に書いてあるため響も知っていた。 何コール目か後、早苗の携帯電話に繋がり、受話器の向こうから声が聞こえた。 『もしもしぃ……?』 「加納さん!」 『……え?その声……サツキくん……? こんな夜中にどうしたのよぅ』 「夜分にすみません。 もしかして今、奏さんと一緒に外で飲んでいたりします?」 『私は家で寝てたとこ』 「そうでしたか。起こしてすみません。 それで、あの——奏さんが今日どこで飲んでるかなんて聞いていたりします?」 『……あー。社長との飲みだから……六本木かなあ』 六本木か。 電車はもう走ってないし、タクシーで迎えに行くにしても、ちょっと遠いな。 『心配しなくても、朝には戻って来るわよぅ』 「そうですか……。 すみません。奏さんの帰りがこんなに遅かったこと、今まで無かったもので」 『今までって言っても、サツキくん、住み込み始めてひと月ちょっとでしょ? そーちゃん、月に1、2回はそういう付き合いに呼ばれるから気にしないでいいよ。 そーちゃんも、ちゃんと飲みに行くって伝えて出たんでしょ?』 「……はい……」 『じゃっ。私もうひと眠りするね。おやすみー!』 電話が切れ、響は長いため息を吐いた。 ……早苗さんが気にしなくていいっていうなら、大丈夫なのかな。 それに飲み会で朝帰りなんて、大学時代、俺も経験したことじゃないか。 友達の家で遅くまでゲームしたり喋ったりして、気づけば日が昇ってて。 それと一緒だよな。 奏さん、大学生と同じ年齢なんだし。 ……でも、奏さんが飲んでる相手って友達じゃなくて芸能関係の人だよな。 偉い人から偉い人を紹介してもらうって言ってたし…… いや、もう深く考えるのはよそう。 だいたい奏さんが誰とどこで飲んでて、何時に帰ってきたって 俺には関係のない話だし、干渉されたくもないだろうし。 よし!もう寝よう! 自分にそう言い聞かせ、響が寝る支度に入った時—— 表で車の停まる音が聞こえ、間も無くガチャリと玄関のドアが開く音がした。 「奏さん……っ!」 反射的に立ち上がった響は、慌てて玄関へ出迎えに行った。 「ただいま」 奏は平然とした様子で靴を脱いでいた。 「っ……おかえり……なさい」 「うん」 遅くまで飲んでいた割には、全く酔っている様子のない奏の姿に響は拍子抜けしてしまった。 「こんな時間まで起きてたんだ」 奏は外行きのジャケットを脱ぎながら廊下を歩いて行く傍ら、響に話しかけた。 「そりゃ、だって——」 そう言いかけて、響は口をつぐんだ。 奏さんのことが心配で、こんな時間まで起きて待っていたんですよ。 そんなことを言うのは押し付けがましいよな。 それに、家族でもない男同士で、なんか……キモいと思われそうだし。 「だって、何?」 奏は冷蔵庫をまさぐり、ミネラルウォーターのボトルを出すと、中身に口をつけて言った。 「いや、何でもないです。 ——あ、お風呂沸かしますか? たくさん飲んでるなら、湯船には入らない方がいいかもですけど」 響が話を逸らそうとすると、奏は響に詰め寄った。 「何でもない?それ、ほんと?」 「ほんとですけど」 「ほんと?——俺が人の感覚がわからないのを良いことに、嘘ついてない?」 「……俺が嘘をついてる可能性を鑑みることができるなら、奏さんは充分、他人を理解する能力が備わっていると思いますよ」 「?……よく分かんないんだけど。 とにかく、何でもないのが本当なら、いいよ」 奏はそう言うと、500ミリリットルのミネラルウォーターを飲み干した後、 風呂場に行くでも寝室に行くでもなく、ピアノの部屋に向かった。 「奏さん?寝ないんですか?」 響が尋ねると、奏は 「寝ない。サツキは寝ないの?」 と尋ね返してきた。 「っ、俺はさっきまで寝てたんで、もう眠くないんです。 それより奏さんが眠くないのかなって」 本当はずっと起きていたが、そう取り繕って言うと、奏はこう答えた。 「眠いけど、やらなきゃいけないことができたから」 「やらなきゃいけないこと?」 「今日中に一曲作らないといけない仕事をもらった」 「え……!?」 響が目を丸めると、奏は響に言った。 「眠くないなら、ちょっとコーヒー淹れてくれない? 俺、途中で寝ちゃいそう」 「いやっ、それなら一回仮眠を取ってから作曲した方が——」 「こういうの、閃いた時に作らないとダメだからさ」 「じゃあ、今頭の中に何か閃いているんですか?」 「うん。だからコーヒー淹れて欲しい。 俺を眠らせないで」 「……分かりました」 奏さん、飲み会帰りに仕事って…… 本当に寝なくて大丈夫なのか? まあ、俺も徹夜してるけど…… 俺は別に外で働いているわけじゃないし、如月邸の家事をしてるだけだから、寝なくてもどうにかなる。 それより奏さんの身体が心配になるな…… 響はキッチンでコーヒーを淹れながら、ピアノの部屋から聴こえてくる音に耳を傾けた。 ……このメロディー、聞き覚えがあるな。 なんだっけな…… 確か、『君に逢いたくて』っていう月9ドラマの劇中曲か。 メインテーマの歌よりも、如月奏作曲のこの劇中曲の方が有名になったんだよな。 それで、1クールで終わりの予定だったドラマの2クール目制作が決定して、 そこでも奏さんの音楽が使われたんだよな。 コーヒーを持ってピアノの部屋に入ると、奏はピアノの前で難しい顔をしながら何度も同じメロディーを繰り返し弾いていた。 「そこ、何か気になるんですか?」 「……んー。頭に浮かんでいる音と、ピアノで再現した時の音がなんか違うんだよね。 けど眠過ぎて、あんま頭が働いてない」 「コーヒー淹れたんで、とりあえず飲んでみてください」 「……ん」 奏はコーヒーを受け取ると、一口飲んで顔を歪めた。 「!お砂糖とミルク、足しますか?」 「いや……これでいいよ」 奏は苦痛を浮かべた表情でもう一口飲むと、飲みかけのカップを響に渡した。 「はぁ……少し頭がすっきりした」 「そんな無理してコーヒーを飲んででも、今作らないとダメですか?」 「時間がないんだよ」 「そもそも今日中にだなんて、そんな無茶な仕事を振る方もどうかしてますよ」 響が言うと、奏は息を一つ吐いた。 「……これ、コンペなんだよ」 「コンペ?」 「今日の飲み会、俺の他にも若手の作曲家が何人も呼ばれててさ。 みんな沢山飲まされて、夜が老けてきた頃に、ドラマのプロデューサーが言ったんだよ。 『今日中に月9ドラマの劇中曲を書き上げてくれた作曲家の音楽を採用する。 このドラマは話題性があるから、名前を売りたいならチャンスだぞ』——って」 「ええ!?なんですか、それ……」 「だから皆すっかり酔いが覚めて、慌てて各々帰宅したってわけ。 今日中に書き上げた人が複数いたら、そこからドラマ関係者で投票して決めるらしいけど、 とにかく書き上げないことには競争の台に上がれないからね」 そう言って奏は、再びピアノを鳴らし始めた。 ——先日、水をテーマにした曲を完成させた奏さんは番組関係者から高い評価を受けた——と加納さんから聞いた。 一筋の雫が、寄せ集まって雨になり、川になって最後は海になる—— そんな水の成長が表現された、独特の緩急ある曲調が 番組のどの特集にもマッチしていて大好評だったらしい。 中学生の時に世に名を轟かせた最初の曲『夜とレモンティー』以来、 曲を作るたびに高い評価を受け、最近もまた水の曲で話題を掻っ攫ったばかりの奏さんが コンペに勝つために寝る間も惜しんで曲作りをするなんて—— 響は、一心不乱にピアノに向かう奏を見つめているうちに、自分の学生時代を思い出した。 自分の不注意で指を骨折して、ピアニストになる夢を諦めた。 それから作曲家に転向しようと思ったけれど、人から評価されるような音楽は一つも作れなくて 途中からは友達と遊んだり、彼女を作ったり、大学生らしい青春を楽しもうという方に舵を切った。 ピアニストとしても作曲家としても芽が出ないまま卒業したら、俺の大学生活は何の意味も無いように思えてしまったから。 それが怖くて、大学時代にお酒を覚え、セックスを覚え、ラクをすることも覚えた。 俺は音楽を続けながらも、音楽から逃げていた。 そんな中途半端な人間には、人の心を動かすような音楽は初めから作れたりしなかっただろう。 俺の音楽との向き合い方は、奏さんのひたむきさの前には子どものお遊戯にも満たない。 こんなんで、よく音楽家になりたいなんて夢を描けたものだ。 音楽家になれなくて悔しいだなんて思えたものだ。 ——気付くと、響の瞳からは涙がこぼれ落ちていた。 「……」 コーヒーカップを手に持ったまま、無言でぼろぼろと泣き続けていると、 やがて再び睡魔の襲ってきた奏がピアノから顔を上げた。 「サツキ、コーヒーちょうだい——」 そう言いかけて、奏は僅かに目を見開いた。 「泣いてる」 「——え?あっ……」 ハッと我に返った響は、慌ててコーヒーカップを手渡し、袖口で涙を拭った。 「すいません。なんか俺も眠くなってきて、あくびが止まんなくなっちゃったみたいです」 「あくびって、そんなに涙出るの?」 「連続してあくびすると、これくらい出ますよ」 「……ふうん」 奏さんに見られてしまった。 眠気のせいで思考がおかしくなっているのかもしれない。 こんなことで泣いてしまうなんて、頭がちゃんと回っていたらしなかった行為だ。 「……俺も、自分用のコーヒー淹れて来ようかな。 あくび止まんないし」 響は独り言のように言って誤魔化しながら、キッチンに向かおうとした。 「それ、俺の飲みかけだけど飲んでいいよ」 すると奏が、そう言って響を呼び止めた。 「えっ。でも——」 「カップをシェアするの、嫌? 俺、普通の感覚が分からないから。 サツキが嫌って感じるなら、新しいの淹れればいいけど」 「嫌じゃないですよ」 大学時代も、友人間でお酒の回し飲みをしたりしたから、カップのシェアには慣れている。 ——本当は嫌だったけど。 嫌だったけど、皆が当たり前のようにそれをやっているのを見て、俺もその感覚を身につけるために耐えた。 そして他人と飲み物を共有することに慣れていった。 だから奏さん一人とカップを共有するくらいなら、なんてことはない。 でも—— 響にとっての問題は、ブラックコーヒーが飲めないことだった。 普段コーヒーを飲む時は、必ずミルクを入れている。 砂糖を入れるのは苦手だ。 それから、なぜだか冷たいコーヒーならばミルクが無くても飲める。 でもこのコーヒーは、まだ湯気がたっているから温かいものだと分かる。 飲める……かな……? 響が迷っていると、奏が不思議そうに尋ねてきた。 「コーヒー飲めないっけ? 朝、飲んでることあるよね?」 「あ……実は、冷たいコーヒーだったらブラックでも飲めるんですけど…… なんでか俺、温かいヤツになるとブラックが苦手なんです」 「へえ」 奏が相槌を打つと、響は 「やっぱり俺、自分用にアイスコーヒー作ってきます。冷凍庫に氷があるはずなので」 と言ってキッチンへ行こうとした。 「待ってよ」 奏は再び響を引き止めると、 「こんな夜更けに氷なんて入れたら腹壊すよ。底冷えしてるし」 と言い、響から飲みかけのコーヒーカップを奪った。 そして奏は、コーヒーの表面に ふうふうと息を吹きかけ始めた。

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