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『君に逢いたくて』②
「えっ……ええ……?」
響が困惑していると、奏は暫く息を吹きかけた後
「これでちょうど良くなったんじゃない?」と言い、響に手渡した。
「……」
響は暫くコーヒーを見つめた後、
「……飲んでみます」
と言い、一口すすってみた。
苦い。
それにまだ温かかった。
だが、それを残すことを何となくしたくなかった響は、気合いで残り全部を一気に飲み干した。
「……ぷは」
角度をつけてカップの中身を飲み干すと、奏は唖然とした表情で響を見つめた。
「……何ですか?」
「なんか、ビールをジョッキで一気飲みするような豪快さだった」
「……変でした?」
「うん、変だった」
奏はそう言った後、くすりと声を漏らした。
「!」
響が目を見開くと、奏はそのまま肩を揺らし始めた。
「……ふふ……。ふふふっ……」
おかしそうに、目線を伏せて笑う奏を、響は呆然と見つめていた。
奏さんが笑うの、初めて見たかもしれない。
同居生活を始めて一ヶ月。
初めて笑う様子を見せる奏は、整った顔がくしゃっと潰れ、どこか幼さを感じさせた。
「っ……くく……!」
「も、もう笑わないでくださいよ……!」
あまりに笑い続ける奏に対し、だんだんと恥ずかしくなってきた響が言うと、ようやく奏は笑うのをやめた。
「……はぁ……、面白かった……」
「そんなに奏さんのツボにハマるとは思いませんでした」
「だってさあ……。カップ持ってない方の手を腰に当ててさ……
ビールジョッキをイッキするサラリーマンにも見えたけど、銭湯で湯上がりに牛乳飲んでるお爺さんにも見えたな」
奏はそう言った後、「……あ」と何かを思いついたように顔を上げた。
そしてピアノに向き直ると、即興の音楽を奏で始めた。
さっきまで作っていた、ドラマ『君に逢いたくて』劇中曲は
失恋したヒロインが復縁を望んで暴走してしまう、恋の苦しさや青さを描いた作品に合わせ哀愁漂う曲調だったが
今弾いているのは明るくコミカルなものだった。
眠気の吹っ飛ぶような、踊り出したくなる音楽を一節弾き終えた奏は
「今の、メモしとこ」
と言い、白紙の五線紙を引っ張り出して鉛筆を走らせていった。
今のは何がテーマだったんだろう?
気になった響が後ろから覗き込むと、譜面のタイトルにはこう書かれていた。
『奏が笑う』
——桜の季節がすっかり過ぎ、雨が降り続く時期に入った。
相変わらず元の時代に戻る方法を見つけられていなかった響は、段々と焦りを感じ始めていた。
元の時代では、俺がこの時代にいる間にも時間が流れているのだろうか。
俺が戻った時、元の時代でも、ここで過ごした日数分の時が流れていたとしたら——
何ヶ月も無断欠勤したことになって、当然仕事はクビだろう。
実家の家族も、俺と連絡が取れなくて、行方不明届を出しているかもしれない。
俺が居なくなったことで、いろんな人に迷惑をかけているんじゃないだろうか——
そんな心配が何度も頭をよぎり、どうにかして帰る方法を探さなければとは思うのだが、
この時代にタイムスリップするきっかけとなった曲がどうしても思い出せないままだった。
いくら初見といっても、一小節も思い出せないなんてことがあるだろうか。
頭に靄がかかったかのように、思い出せない。
奏さんは相変わらず俺を家に置いてくれているけれど、
いつまでも俺がここに居座っていることに良い気がしていないかもしれない。
だからせめて、奏さんの曲作りの迷惑にだけはならないようにしたいけど——
「そーちゃん!サツキくん!遊びに来たよー」
響が屋敷の掃除をしていると、玄関のドアが開き、早苗が入って来た。
早苗はマネージャーという立場もあり、奏の家のスペアキーを持っていた。
週に一度、ふらりと訪ねてくるため
初めは突然の訪問に緊張していた響だったが、
二ヶ月も経つ頃には彼女の存在をすっかり受け入れていた。
「じゃーん。今日の手土産はこちら——銀座の名店・海也のもなか!
予約して買ったの。皆で食べよー!」
「わあ!美味しそうですね、ありがとうございます!
それじゃ俺、お茶淹れて来ます」
「さすがサツキくん、気が利くねぇ」
響が急須で淹れたお茶を持ってリビングに行くと、
奏がどんよりとした表情でもなかを半分に割っていた。
「……つぶあん……」
「え、何?つぶあんダメだっけ」
「ダメ」
「あっれえ?そーちゃんって、銀座にある老舗名店の小豆菓子がお気に入りって記憶してたんだけどな。
これじゃ無かったっけ?」
「それ、もしかしたらムラキヤのアンパンじゃないですか?」
首を傾げて考え込んでいる早苗の前にお茶を並べながら響が言うと、
「それだ!」
と早苗は弾かれたように顔を上げた。
「そーそー。ムラキヤのアンパン!
そうかあ、あっちだったかー」
「俺、こしあんしか食べれない」
「はいはい。じゃあこのもなかは、私とサツキくんで美味しく頂くから!
そーちゃんはオヤツ無しってことで!」
「……」
奏はむっとした表情を浮かべた後、ふらっと立ち上がり、キッチンへ消えて行った。
「ん?あの子、もなかに対抗して何か買い置きのおやつを食べるつもりかしら」
早苗が言うと、間も無く奏はすり鉢を持って戻って来た。
「つぶあんを潰してこしあんにする。
それなら食べられるから。
サツキ、手伝って」
「はい」
響は奏に言われるがまま、すり鉢にもなかの中身を移し、棒で潰していった。
早苗はそれをじっと見つめていた。
——もなかを食べ終えた後、奏がトイレに立った時、早苗は響に小声で言った。
「ねえ……。いくら家政婦さんと言ったって、あんなことまで世話を焼かなくてもいいんじゃない?」
「え?あー……」
奏のワガママに応えてもなかの中身をすり潰したことを言っているのだと気付き、響は苦笑いを浮かべた。
「ああいった類のお願いには、もう慣れちゃいました」
「……サツキくんって、彼女とかできたら甘やかすタイプでしょ」
「そうですかねえ」
「絶対そうよ!」
早苗は鼻息を荒くして言った。
「サツキくん、よく聞いてね?
女の子はね、甘やかせば甘やかすほどにつけ上がる生き物なの!
それでいて、ただ優しいばかりの男にはときめかない。
『優しい人が好き』って向こうからアプローチ仕掛けて来たって、
結局はちょっとワルな男に惹かれて、サツキくんみたいな子はポイ!されちゃうんだからーッ!!」
「……加納さん、酔ってます?」
「酔ってなぁい!!
私はサツキくんが心配なのよ。
そーちゃんのこと甘やかしてるのを見てるとね、
女の子が相手でも同じ接し方をしてるんじゃないかって思うわけよ。
でもね、あんまり甘やかしすぎると、その子にとってあなたは『オカン』になっちゃうのよ!」
「……加納さん、もしかして元カレから
『オカンみたい』って言われたことあります?」
「ぐ!!わ、私はサツキくんの話をしてるのよっ!
歳上の話はありがたーく聞くものよっ!?」
「何?なんか楽しそうだね」
——その時、トイレから戻って来た奏が二人に尋ねた。
「あ、奏さん。聞いてください」
「そーちゃん!あなたも思わない!?」
響と早苗が同時に言うと、奏はあからさまに顔をしかめた。
奏は同時に複数から話を振られるのが苦手らしい。
響は、最初の頃には奏が何を考えているのかわからないと思っていたが、
取り繕うことを一切しないため、今は逆に、彼の考えていることは表情に出るため分かりやすいと思うようになった。
ただし、無表情の時には何を考えているのか相変わらず分からない。
大方、曲が浮かんで頭の中で展開しているのではないか——
とりあえずは、そう思うことにしている。
「そーちゃん。サツキくんと暮らしてて、『オカンぽいな』って思うことはない?!」
早苗が勢いよく尋ねた。
「……別に思わないけど」
「そうー!?サツキくんの世話焼きっぷりを見てるとね、どうもオカンを感じちゃうのよね。
ていうか、うちのオカンなんだわ。
そーそー、サツキくんってうちのオカンそっくりなのよぉ!」
「それ、母親っぽいんじゃなくて、加納さんのお母さんと似てるって話じゃないですか」
響が呆れたように言うと、
「私のオカンは世のオカンと同義なの!」
と早苗は謎理論を展開した。
「……オカンと言えば……
そう言えば、奏さんのご両親ってどちらにいらっしゃるんですか?」
何気ない一言だった。
「……両親……?」
「はい。こんな豪邸に一人で住んでるなんて、不思議だなとは前から思ってたんです。
奏さんって出身も東京ですし、どうして一緒に住んでないんだろうって」
「……両親は、覚えてない……」
奏はそう答えた後、
「……なんか頭痛い」
と言い、徐に寝室へ行ってしまった。
「……何か、聞いちゃまずいこと聞いちゃいましたかね……?」
響が不安そうに言うと、早苗は
「あー……」
と唸るように言って項垂れた。
「やっちゃった……。
そーちゃんの前で、オカンとか両親ネタはNGってこと、忘れてたわ。
もなかといい、どーして私って大事なことをすぐ忘れちゃうのかしら。
マネージャー向いてないのかも……」
「いや、もなかとアンパンの記憶違いは大したことじゃないと思うので、忘れててもいいと思いますけど。
両親の話題はダメだったんですか」
「うーん、まあ、サツキくんにならいっかぁ……」
早苗は少し迷った後、話し始めた。
「あの子、父親が資産家の一族でね。
父親本人もエリート官僚だかなんだかだったの。
なんだけど、エリート街道まっしぐらで女遊びに慣れてなかった父親は
絶対で使った高級クラブで働いていた女とうっかり関係を持って、妊娠させちゃったのね。
その妊娠させた相手が、そーちゃんの母親ってわけ。
で、結局責任を取るって形で一度は夫婦になったんだけど……
母親が——ええと原因はわからないけど——父親の逆鱗に触れるようなことをして、離婚しちゃったの。
父親はそーちゃんを母親に預けて、その時に養育費と、手切金の代わりにこの豪邸を母親に与えたの」
「えっ!この家って、元々ご両親の住んでいたものだったんですか!」
話の途中で響が声を上げると、早苗はこくりと頷いてみせた。
「そう。そーちゃんが小さい頃は、ここで母親と二人暮らししてたわ。
お金を余るほどもらっていた母親は、そーちゃんに色々な習い事をさせて、可愛がって育ててた。
それはもう、ほんと溺愛っぷりが凄いってことで、ピアノ教室しか接点のなかった私の耳にも届くくらいの噂になってたわ。
——なんだけど、その母親はそーちゃんが小学六年生の時に捕まってしまったの」
「捕まった!?」
響が目を丸めると、早苗が「しっ」と声を潜めるよう合図した。
「そーちゃんに聞こえないように話しましょ」
「あ……すみません」
響が小声で謝ると、早苗は話を再開した。
「母親が捕まった後、一人になってしまったそーちゃんのために
父方だか母方だか知らないけど親族のおばさまが後見人になってくれて、
そーちゃんが高校を卒業する時まではその人が一緒に住んでくれていたわ。
住んでいたと言っても、住所をここにしていただけで、ほとんどは自分の家で過ごしていたけど。
おばさまにも家庭があったから、多感な時期の男の子と二人暮らしより、自分の家族と生活したかったんでしょうね。
だからそーちゃんは中学生以降、ほとんどの期間、一人暮らしをしてた」
早苗の話を聞き、響は奏に関して腑に落ちた点がいくつかあった。
奏が一人暮らしをしている経緯。
若干ハタチにして稼ぎで豪邸を手に入れたのだと思っていたが、
元は離婚して去って行った父親の持ち物だったのだ。
そして、奏が中学生以前の記憶を持っていないこと。
きっと母親が逮捕され、たった二人の母子が引き離されてしまったショックとストレスで
小学六年生までの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったのではないだろうか。
それから、母親に溺愛されていたと言う話を聞くに
母親と暮らした記憶は残っていないものの、
人に甘やかしてもらうことを当たり前として育って来た習慣が抜けていないのかもしれないな、とも響は考えた。
早苗の話を聞いて色々と合点がいった響は、早苗に礼を言った。
「奏さんの過去を話してくださってありがとうございます。
奏さんのこと、色々知れた気がします」
「いいのよ。
なんかサツキくん、そーちゃんのことたくさん世話してくれて、大事に思ってくれてるみたいだから……。
NGな話題とか、共有できておいた方がいいと思って」
「はい。もう奏さんにご両親の話は振らないように気を付けます」
「ま、本人は辛かっただろう頃の記憶がないみたいだし、NGってほど気にしてないとは思うんだけどね!」
早苗はそう言って、残っていたもなかを食べ切ると腰を上げた。
「じゃ、私そろそろ帰ろっかな」
「あ——はい。お気を付けて」
「ホントはもなかを食べた後、そーちゃんに仕事の話を振ろうと思ってたんだけどねえ。
私の不注意でNG話出しちゃったから、また後日出直そうと思う」
「仕事の話?また何か、奏さんに依頼が来てるんですか?」
「あー……。それがねえ……」
早苗は、腰を再びソファに落とすと、腕と脚の両方を組んでみせた。
「——あんまり受けさせたくない仕事なのよね……。
でも、社長はそーちゃんのためにもやった方が良いって言ってて……。
あーこれもサツキくんに共有して、意見もらった方がいいのかなあ」
「何の仕事なんですか?」
「……まだ正式に受けた訳じゃないけどね?」
早苗は声を落とすと、依頼の概要を話し始めた。
「こないだ、そーちゃんがコンペで月9ドラマ『君に逢いたくて』の劇中曲の担当を勝ち取った話は聞いてる?」
「はい。徹夜で書き上げているのを横で見ていたので——最終的に奏さんの曲が選ばれたと知らされて、良かったなあって思いました」
「その『君に逢いたくて』なんだけど、主題歌の方を担当するのがタレントの『夏姫』なの。
彼女のことは知ってる?」
「……知らないです……」
この当時に流行っている歌手だろうか?
現代にいた頃も、俺はクラシックとかには詳しかったけれど
J-POPには疎くて、人気のある歌手やアイドル、バンドの類はあんまり詳しくなかった。
「そう。知らないなら彼女の説明から入るけど、夏姫は最近売れ始めたタレントよ。
元々は雑誌の読者モデルをやってて、それからアイドルとかダンスとか女優業とか、幅広くこなしてきたタレントなんだけど、どれも鳴かず飛ばずだったの。
でも力のある事務所に所属してて、そこの偉い人が、歌手だったら夏姫の魅力がもっと活かせるかもしれないって言い出したことで
今回『君に逢いたくて』の製作陣と交渉して、夏姫が歌手デビューをするための場として主題歌を担当することになったわけ」
「へえ。事務所が売り出し中のタレントさんですか。
ドラマがきっかけで有名になるといいですね」
なんの気は無しに響が言うと、早苗は途端に渋い顔になった。
「問題はここからよ!
その事務所、よっぽど夏姫がお気に入りのタレントなのか知らないけど
ドラマが始まるのに合わせていろんな形でプロモーションしたいと考えてるみたいでね!?
劇中曲を担当したそーちゃんとのコラボ記事を雑誌に載せることを計画してるのよ!」
「……それの何が問題なんですか?
奏さんのプロモーションにもなるし、マネージャーとしてはありがたい依頼じゃないんですか?」
響が言うと、早苗は身体をわなわなと震わせた。
「……コラボ記事というのが、音楽雑誌で互いのクリエイティブについて語り合うような対談の類だったら、私も受けるべきだと思ったわ。
でも違うのよ。
載せる雑誌は夏姫が読者モデルをやってる女子高生、女子大生向けファッション誌『アネモネ』。
そしてコラボというのは、そーちゃんと夏姫が彼氏彼女を演じて『若者に人気の町でお忍びデート風』に写真を撮るって企画なのよぅ!!」
早苗はテーブルをダン!と叩き、その音に驚いた響はビクッと肩を揺らした。
「なぁーにが彼氏彼女よ!お忍びデートよっ!
そーちゃんは音楽家であって、モデルじゃないのよ!?
それなのに夏姫は歌手デビューに飽き足らず、読モとしてもハネるために
知名度のあるそーちゃんと絡むことで自分の知名度も上げようとしてるワケ!
夏姫は元々男性ファンより中高生女子のファンが圧倒的だから、
そういう彼氏彼女を演じる企画が印象操作をする上で足を引っ張ることにはならないけど、
そーちゃんは老若男女の音楽を愛する人々からの指示を集めているから
そういう浮ついた企画に出るのはイメージを下げかねないのっ!
なのに社長が『奏くんはイケメンだからモデルもいけると思うねえ』なんてほざいて!
あーもう、あのミーハーオヤジ、ムカつく!!」
ひと息に話し終え、冷め切ったお茶をごくごくと喉に流し込む早苗。
その剣幕に、響は唯々ぽかんと口を開けるばかりだった。
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